20/04/11 22:52:53.26 TTwNyAsI0.net
>>230
マニラ市占領後、其の余りの惨状に驚愕したマッカーサー将軍は
今後の自身の昇進に不利と考え、終戦半年前からマニラ大虐殺のスケープゴートに山下大将を選考していた。
山下大将は終戦後「「私は知らなかった。しかし、私に責任がないとは言わない」
と潔く1946年2月東京裁判開廷より早く現地で囚人服のまま刑死に処されられる
マッカーサーは戦後も日本進駐軍の最高責任者に君臨し時期大統領選も視野に入れており
米陸軍公刊戦史の自分の戦った部分のいち早い刊行を部下や関係者に促した。
米陸軍公刊戦史は全77巻で内太平洋戦域関係の11巻は1949年から公刊されていくが
マッカーサー自身が一番成果をあげその功績を待望していたはずの第10巻
「フィリピンでの勝利」は何故か遅れに遅れ刊行は1963年であった。
(マッカーサー元帥は1951年退役、1964年に死亡)
それほど米国にとってもマニラ市街戦(住民虐殺)はタブーとされたのではないだろうか。
もしかするとマッカーサー自身が引退後は自身の不名誉と考え
公刊を遅らせるように動いたかも知れないし戦後の米比関係に水を注さないよう米国の誰かが故意に公刊を遅らせたと私は想像する。