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米軍が渡嘉敷島に上陸した翌日の1945年3月28日、住民らは旧日本軍の命令で島北部の北山(ニシヤマ)に集まり、「集団自決(強制集団死)」で330人が犠牲になった。当時11歳で渡嘉敷国民学校6年生だった大城政連(せいれん)さん(86)も大けがを負い、幼い弟を失った。母は家族の死を懇願し、叔父は自分の家族の命を奪った後、大城さん一家にも手を掛け、「自決」した。(社会部・新垣玲央)
◆玉砕場
米軍が沖縄上陸に向けて大空襲をかけたのは3月23日。沖縄本島攻略の足掛かりにするため、26日に阿嘉島、慶留間島、座間味島、そして27日には渡嘉敷島の渡嘉志久海岸と阿波連海岸に上陸した。
阿波連に住む大城さんは空襲の日から、母と2人の幼い弟と共に山中へ避難した。大雨の中、山裾の恩納河原(ウンナガーラ)から北山に移り、たどり着いた「玉砕場」では泣き声や悲鳴が響いていた。
「米軍に捕まれば、鼻と耳をそがれ、いたずらされ殺されると聞いていた。もうみんな、最後の場所を選んでいた」。
家族ら数人で手りゅう弾を囲んで「自決」を図ったが、不発。母は「やっちー、わったーやーにんじゅー、へーくくるして! (兄さん、私たち家族を早く殺して)」と叔父にせがんだ。叔父は「まっちょーけ(待って)」と言って棒を手に取り、まず自らの家族を殴り始めた。
◆川の水
「何が何だか分からない。まさか自分もそうなると思わなかった」。大城さん一家もうつぶせに寝かされ、大城さんは後頭部を打たれて意識を失った。気が付いた時には薄暗く、辺りを見渡すと、4歳だった三男邦夫さんは息絶えていた。叔父は首をつって自殺し、母と次男は大けがを負っていた。
翌日、水が欲しくなり、近くの川の水を飲んだ。「自決で皆が死んだ血」だった。近くに落ちた艦砲の破片で足もやられたその日、米軍に捕まった。米兵の印象は、聞いた話とは違っていた。「全部うそだった」
母は戦後、亡くなった邦夫さんが「子どもの中で一番頭が良かった」と繰り返した。それでも、あの「自決」を語ろうとはしなかった。
「誰も責められんさ…」と大城さんは言葉を詰まらせる。「二度とあんなことはない方がいい。考えるのはそれだけよ」。75年前の悲しみを、静かに胸に抱え続ける。
3/29(日) 6:35配信
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