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浅野は1946年5月、日本語新聞「日米時事」を創刊し、
ララ物資募集の運動を積極的に報道したことから、
その活動はアメリカをはじめ、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなどの日系社会にも広がっていきました。
1952年の調査では、ララ物資救援活動に貢献した日系団体は、36団体にのぼるとされています
戦後の学校給食は、ララから給食用物資として贈られた脱脂粉乳や缶詰などが用いられ、
食糧が不足していた日本で成長期の子どもたちの栄養不足を補うために始められました。
特に、脱脂粉乳は栄養価が高く、多くの児童が栄養失調から救われました。
現在の学校給食の牛乳も、このミルク給食がもとになっているのです。
1946年12月24日、ララからの給食用物資の贈呈式が行われ、
試験的に、東京、神奈川、千葉の25万人の児童に対して学校給食が行われ、
翌年1月、全国都市の児童300万人に対し行われるようになりました。
贈呈式が行われた12月24日を「学校給食の日」と定めていましたが、
冬休み前で給食がない学校がほとんどなので、今では1月24日が「学校給食の記念日」となっています。
(↑記念日の意味消失。
連合国軍の占領下にあり悲惨な状態にあった日本人に与え、救ったのは日系人、だとイラ付く奴らの仕業だろう。
現在、日本人とは無関係のサンタ笑がおもちゃだの何だのを買い、子供達に与えている笑)