【歴史】アフリカ出身の侍がいた 戦国時代の数奇な人生、ハリウッド映画へ★2at NEWSPLUS
【歴史】アフリカ出身の侍がいた 戦国時代の数奇な人生、ハリウッド映画へ★2 - 暇つぶし2ch1:幻の右 ★
20/01/21 12:23:41 0kWd/+NY9.net
今から500年近く前、1人の背の高いアフリカ人男性が日本に到着した。彼はその後、武士の地位を手に入れた最初の外国人となる。その数奇な人生が、複数のハリウッド映画の題材になろうとしている。

弥助として知られるこのアフリカ人男性は、16世紀に日本統一を進めた最初の大名、織田信長の家臣となった。

歴史学者のローレンス・ウィンクラー氏によると、弥助は1579年に当時の首都だった京都に到着。彼を一目見ようと大勢が互いの上によじのぼる騒ぎで、中には押しつぶされて死ぬ人もいたという。

来日から1年もしない内に、弥助は侍としての身分を手に入れた。間もなく弥助は日本語を自在に操り、信長のお供として戦場に出るようになった。

徳川家康の家臣だった松平家忠は1579年の日記に、弥助を目にした際のことを記している。それには、「肌は墨のようで、身長は6尺2分(約182センチ)」と書かれている。

1900年の日本人男性の平均身長は157.9センチだった。16世紀ともなれば、栄養状態が悪い日本人の身長はさらに低かったはずで、弥助はほとんどの人を見下ろしていたに違いない。

士分取り立て
弥助の誕生日や出生地については記録が残っていない。多くの歴史家がモザンビーク出身ではないかとみているが、エチオピアやナイジェリアから来たという説もある。

分かっているのは、弥助はイエズス会のイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの視察旅行に同行して日本を訪れたことと、1579~1582年の間しか史料上の記録がないことだ。

一部の研究者は、弥助が奴隷だったのではないかとみているが、確証はない。

弥助のドキュメンタリー映画を製作しているフロイド・ウェブ氏とデボラ・ディスノー氏は、弥助が奴隷だったというのは憶測に過ぎないとみている。

ディスノー氏は、「戦士としての経験がなければ、たった1年で侍に上り詰めることは難しいはずだ」と語る。

武士階級に生まれた者は通常、子どもの頃から訓練を積まされるからだ。

戦国大名との友情
ウェブ氏とディスノー氏によると、弥助は日本に到着した直後に織田信長と出会った。信長は、弥助の巧みな話術に興味を引かれたのだろうという。

弥助についての著書がある研究者のトマス・ロックリー氏は、弥助は当時すでに日本語を少し喋れるようになっており、信長とは馬が合ったようだと説明する。

ロックリー氏によると、弥助は訪日前にアフリカやインドで生活した経験があり、こうした地域の話を信長に聞かせて楽しませたのだという。

また、日本語が話せたなら、その分だけ周囲の覚えもめでたかったはずだとウェブ氏は指摘する。

「イエズス会の宣教師たちは、日本人の魂に宗教を持ち込もうとした。しかし、弥助にそういう目的はなかった」

また、信長は初対面の際、甥(おい)を通じて弥助に褒賞を与えたという記録も残っている。

コートジヴォワール系のフランス人作家セルジュ・ビレ氏は、弥助の数奇な立身出世物語に興味を持って、弥助について本を発表している。

BBCの取材でビレ氏は、「弥助にまつわる謎が、私をひきつけた」と語った。

日本の大名の信長とアフリカ人侍の弥助の間には、多くの共通点があったとビレ氏は言う。

信長は武術を好み、自分でも練習を怠らなかった。エキセントリックな人物としても知られ、西洋の衣服を身にまとい、高い規律を身につけた教養人を側に置きたがっていた。

(中略)

米エンターテインメント誌「ヴァラエティ」は昨年5月、映画「ブラックパンサー」に主演したチャドウィック・ボーズマン氏が弥助を演じる予定だと報じた。

ハリウッドでは現在、弥助の物語の映画化が2つ、進行している。制作スタジオのライオンズゲートは2017年、黒人の侍についての映画を製作中だと発表した。

500年近くたった今も、弥助の数奇な人生は大勢をひきつけているのだ。

URLリンク(ichef.bbci.co.uk)

2020年01月20日
URLリンク(www.bbc.com)

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