【皇室】天皇・皇后両陛下がイギリスを公式訪問 4月から6月の間にat NEWSPLUS
【皇室】天皇・皇后両陛下がイギリスを公式訪問 4月から6月の間に - 暇つぶし2ch187:名無しさん@1周年
20/01/15 23:42:05 vnlOlcbP0.net
>>182
『イギリス連邦占領軍による強姦』

オーストラリア、英国、インド、ニュージーランド軍の一部によって構成された
イギリス連邦占領軍 (BCOF)もまた多くの強姦に関与していた。

オーストラリア軍は1946年に広島県呉市に上陸するとすぐ【ジープで若い女性を拉致し強姦】していた。

【被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道は封殺】されていた。
中には、【一人の少女が20人以上の兵士に回姦される事件】もあった。

【イギリス連邦占領軍の公式報告】では【軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件】、
【1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦】を犯し、有罪判決を受けたされる。
しかしながら、【1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない。】


『日本の被害報道への検閲』

GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間
【幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施】しており
開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが
占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し
【占領軍による強姦】などの【重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象】となっていた。

188:名無しさん@1周年
20/01/15 23:43:57 vnlOlcbP0.net
ビルマでのイギリス軍による「日本人強制抑留(シベリア虐殺と同等)」

ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)に第二次世界大戦(大東亜戦争)終了後に
主に英国軍などの東南アジア連合国軍が降伏した日本軍人に行った“非人道的行為”(あるいは報復行為)について述べたものである。

戦後、英国軍主体の東南アジア連合国軍 (SEAC:South East Asia Command) の命令によって
“作業隊”とされた日本兵は速やかな復員(帰還)ができず
ビルマ各地の収容所において、「降伏日本軍人」(JSP:Japanese Surrendered Personnel) などとして取り扱われ、
兵士は飢えと強制労働などで過酷な条件で抑留された。

英国軍主体の連合国軍の日本人への報復が原因の捕虜虐待の歴史が21世紀になっても言及される。

[拘束]
降伏した日本兵は武装解除後に、収容所に入れられた。
敗戦により囚われの身(捕虜)となった日本兵が大多数であるため、その扱いは
国際法やジュネーブ条約による戦争捕虜の待遇にはせず、「降伏日本軍人」(JSP) という枠を設け
国際法に抵触しないとされる程度の取り扱いが行われ、それでも多くの日本兵が一年以内に帰国(帰還)できたところ、
更に英国軍主体の東南アジア連合国軍 (SEAC) は日本兵から「作業隊」を選び、帰国を遅らせた

ビルマでは1946年11月までの死者1,624人のうち、52%が労務に起因すると言われ
労務に関連したこの死者の多さは異常であるとする指摘もある

兵士の労役の賃金は、連合国(英国)からは支払われず、日本政府の負担となった。

アーロン収容所(Ahlone concentration camp, Aron PoW camp)は、
第二次世界大戦、ラングーンに存在した主に英国軍が管理する日本人捕虜収容所又は強制収容所である。
降伏日本軍人(被武装解除軍人)に対する扱いが苛烈であったとされる。

189:名無しさん@1周年
20/01/15 23:44:10 vnlOlcbP0.net
[強制労働]

酷暑の地ビルマで裸同然の姿で、毎日毎日、強制労働(労役・労苦)の作業が行われたという。
作業は炎天下であっても行われた。昼休み以外は休憩は無かった。
ジャングルを切り裂いての道路新設などを重機無しの"人海戦術"でやらされることもあった。
ショベル、十字鍬など工具も満足に無い場合もあったし、靴の無い者も強制労働をやらされた

連合国軍は秩序の維持の為と称して、暴力・体罰を用いたり、銃殺の厳罰を用いた。

戦犯の疑いを受けた日本兵は、獄中で極端な食糧制限を受け、餓死寸前に追い込まれ、
脱獄、発狂、自殺が起き、英軍は日本兵の目の前で、戦犯となった日本兵の銃殺刑を執行したこともあったという

戦犯容疑者に支給される糧秣は、「生命を保つに必要最小限度の量」だったという。

最後まで帰国が遅らされたのは、戦犯残留者(戦犯容疑者と取り調べの対象となる関係者など)であり
監禁される容疑者以外は重労働が続いた

190:名無しさん@1周年
20/01/15 23:44:25 vnlOlcbP0.net
これはポツダム宣言とジュネーブ捕虜条約に違反しており、国際赤十字委員会は米英両国に改善勧告を行った。
ポツダム宣言の9条には「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。」
9.The Japanese military forces, after being completely disarmed,
shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.)とある。

多くの日本兵は戦後から1年の間に引揚げることができたが、
シベリア・東南アジア・中国に抑留されて、数年間にわたって重労働を課せられた日本兵も存在した

日本兵の分類は、戦争中に拘束された「捕虜(俘虜)」(POW,PoW:Prisoners of War, captured)、
戦争後に拘束された「降伏日本軍人」(Japanese Surrendered Personnel:JSP)又は
「被武装解除軍人」(Disarmed Military Personnel)、そして「戦犯(戦争犯罪容疑者)」(war criminal) に分けられ、
捕虜や降伏者は収容所に、戦犯は刑務所や監獄に拘束された

191:名無しさん@1周年
20/01/15 23:44:39 vnlOlcbP0.net
終戦後、東南アジアでは63万人余の日本兵が武装解除して、日本降伏軍人(JSP)と扱われ、
うち10万5千人余(他の資料では約113,500人)が、
英軍を主力にした東南アジア連合国軍 SEAC (South East Asia Command) の命令
(ビルマ・マ�


192:戟[・シンガポール・ジャワ等地域別作業隊人数指示)によって、 1946年(昭和21年)7月以降も“作業隊”として収容所に抑留され、速やかな帰国(帰還)ができず、 戦争終了後から1948年(昭和23年)1月の送還完了までの間、9千人弱が死亡しているという資料もある。 インドなどを含むビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、 6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名のみであった 別の資料では、終戦の日の1945年8月15日に、インドを含むビルマ方面には約7万1500人の日本兵がいたとされている。 戦後に死亡したビルマの日本兵は2,600名という統計もある。 強制労働を日本軍が拒否できなかった理由は、英国軍のマニュアルに、 日本兵に言うことを効かせるには、「帰国を遅らせる」と脅せばよいというものがある



193:名無しさん@1周年
20/01/15 23:45:49 vnlOlcbP0.net
>>137
1941年(昭和16年)、ABCD包囲網 (正統史観年表

ABCD包囲網包囲陣を画策したのは、
イギリスのチャーチルであることが最近の研究で明らかになった。

第二次世界大戦はドイツのポーランド侵攻によって始まったわけだが、
ドイツ軍の圧倒的な強さにイギリスは風前のともしびといったありさまであった。
チャーチルが首相になったのも、連敗に次ぐ連敗でチェンバレンが政権を放り出したからである。

このような状況を見てチャーチルが考えたのは、
イギリスを救うためには戦争にアメリカを引きずり込むしかない、ということだった。

しかしルーズベルトは、
絶対に参戦しないという公約を掲げてアメリカ大統領に当選していた。

チャーチルはまず日本とアメリカの間で戦争が起きるように仕向け、
日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦うことになるように仕組もうと考えた。

そしてイギリスとアメリカは日本に対する石油禁輸措置を決定する。
石油をまったく輸入できなくて困った日本はオランダ領インドネシアに打信すると
イギリスとアメリカはオランダを引き入れ1941年8月、ついに日本への包囲網を完成させた。

ABCD包囲陣では日本資産の凍結、鉄鉱、石油禁輸措置が取られた。

194:名無しさん@1周年
20/01/15 23:46:10 vnlOlcbP0.net
ヤルタ会談・ヤルタ密約(正統史観

1945年(昭和20年)2月4日~11日、ヤルタ会談・ヤルタ密約

第二次世界大戦と大東亜戦争の勝敗が明らかになりつつあった
1945年(昭和20年)年2月、
アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、
ソ連のスターリンがソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行った。

ここでルーズベルトは、なんとスターリンに、
ドイツ降伏の3ヵ月後に日ソ中立条約を侵犯して対日参戦するよう要請した。
ルーズベルトはその見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、
そして満州に日本が有する諸々の権益
(日露戦争後のポーツマス条約により日本が得た旅順港や南満洲鉄道といった日本の権益)
をソ連に与えるという密約を交わした。

日本に対するアメリカの勝利をさらに確実にするため、
いかなる非道なことをしてでもソ連に参戦してもらいたかったのだ。
日本には認めないとあれほど言い張ってきた満洲の権益を
共産主義のソ連には認めたわけで、アメリカの提唱してきた「門戸開放」なるものは
単なるまやかしにすぎなかったことを露呈した。

195:名無しさん@1周年
20/01/15 23:46:22 vnlOlcbP0.net
ソ連はこの密約を根拠に、1945年(昭和20年)8月の終戦間際、
日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、千島列島、樺太に侵攻を開始した。

ヤルタ密約は、当事国が関与しない領土の移転は無効という
国際法の条文に明白に違反しているため、
ソ連・ロシアによる南樺太及び千島列島を侵


196:略・占領する法的根拠は まったくないのだが、日本政府がまともに抗議せず、また、アメリカに反省がないため、 南樺太、千島列島は現在に至るまでソ連に占領されたままである。 2005年(平成17年)にはアメリカ大統領のブッシュは、このヤルタ協定が 東欧諸国における圧制を生むなどした諸悪の根源と非難したが、 アメリカが日本の分割の原因となる秘密協定を行なったことに対する反省はまったく示されなかった。



197:名無しさん@1周年
20/01/15 23:59:55 kypWZyrOO.net
どうせ「そろそろ挨拶に来いや」みたいな感じで呼びつけたんだろ。
上皇の事も子分みたいに扱ってたし。
「ウチのひ孫のシャーロット、かわええやろ?悠仁はんの嫁にどうや?あ!?イヤとは言わさんでワレ!」
となる可能性もある。

198:名無しさん@1周年
20/01/16 00:00:31 Bu/LIks80.net
>>160
経費節減
平成時代が旅行やりすぎ

199:名無しさん@1周年
20/01/16 00:01:43 UO8F+LKK0.net
眞子様が圭さんと結婚しますと言うのを国民が祝福するって記事が出てるな

200:名無しさん@1周年
20/01/16 00:03:04 UO8F+LKK0.net
>>191
美人が嫁に来てくれるわけなかろう、、

201:名無しさん@1周年
20/01/16 00:05:50.44 QIISaOmg0.net
英国はビルマに大量のインド人を入れて金融業を、
また華僑には経済、徴税を担当させ、
山岳民族をキリスト教に改宗させて軍、警察を担当させることで
ビルマ人は最下層の小作人となっていた。
抵抗が起こったが鎮圧された。
日露戦争に勝利した日本を知って立ち上がったともいわれるが、どの国も惨敗した。
1941年11月、ビルマの植民地政府首相となっていたウ・ソーは、
ロンドンを訪ね、首相のチャーチルに
「多くのビルマ兵を英国のために戦場に送り出す。だから戦後、独立を与えて欲しい」
◆「彼らに必要なのは鞭だ」
白人優越主義者のチャーチルは、もちろん要求を突っぱねる。
その後、チャーチルは英植民地相エイメリーに「彼らに必要なのは独立ではなく鞭だ」
11月下旬、ウ・ソーは米大統領ルーズベルトに会いに行った。
ルーズベルトはその少し前に大西洋憲章を発表し、
「いかなる国民も自分の政府を選ぶ権利を持ち、奪われた主権は回復されるべきだ」
と述べた。
しかし、ルーズベルトは会う気もなかった。
「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。
ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語った。
失意のウ・ソーは太平洋経由で帰国するため
西海岸からハワイの真珠湾へ降り立った。

202:名無しさん@1周年
20/01/16 00:06:07.98 QIISaOmg0.net
◆白人が裸足で逃げ出した
12月7日午前7時49分、いわゆる真珠湾攻撃。
ウ・ソーは
「自分たちがかしずき、ご主人様(タキン)と崇めてきた白人たちが
青ざめて逃げまどうのを確かに見た。」
1941年12月31日、戦争状態となったため、
ニューヨークからロンドン、ポルトガルと帰国途中、
リスボンでこっそり日本公使館を訪ね、日本政府に申し出る。
日本軍がビルマに来たら、日本人と共に英国勢力の駆逐に当たる、
日本の必要とする資源は悉く提供する、と。
しかし、日本の公使が翌日打ったこの暗号電報は傍受、解読されており、
ウ・ソーは1月2日に中東ハイファへ向かい、
12日に空港に着くと反逆罪の


203:罪で逮捕される。 アメリカはポルトガルの公使の電報まで傍受、解読し、英国に伝えていたのだった。



204:名無しさん@1周年
20/01/16 00:06:31.17 QIISaOmg0.net
◆暗殺者と犠牲者に仕立てる
1947年7月19日、アウンサンは暗殺される。
英植民地政府はウ・ソーを逮捕。
英国は二人の反逆者を同時に始末した。
「ただ一人を暗殺犯に、もう一人を犠牲者にするという出来すぎの
シチュエーションを本気で信じるビルマ人は一人もいない。」
アウンサンの忘れ形見スーチーは英国のオックスフォード大に入学し、
大学を出ると待っていたように英国人男性が紹介され、二人は結婚。
スーチーは英国を第二の祖国と思い、
父の暗殺犯は英国の歴史通り、ウ・ソーだと信じている。
■ラバウル 米豪の「白きゴーマニズム」
◆白豪主義
第一次大戦後のパリ会議で国際連盟の設立が話し合われ、
日本は規約に人種平等案を提案した。
これに徹底して反対したのがオーストラリア。
当時、彼らは白人以外は人に非ずという白豪主義を掲げ、
原住民アボリジニの淘汰をやっていた。
「現代では人間狩りはやめたが、アボリジニの女を強姦し子供が出来ると、
白人の血が入っているからと産んだ母親から取り上げて
白人社会で育てる形ができている。」
シドニー五輪の聖火最終ランナーも混血で、
父親は単に強姦した白人であり、彼女は実母が誰かも知らないという。

205:名無しさん@1周年
20/01/16 00:06:48.77 QIISaOmg0.net
◆アスピリーらの犯罪
オーストラリア軍が戦争犯罪調査を行ったが、
担当したイーサー少将は「起訴すべき犯罪はない」
しかし、あとに入ったモーリス少将の指示で
アスピリー、アラランド大尉が再調査し、ラバウルの軍事法廷では203件が起訴された。
スパイを処刑した伊藤中将が死刑判決を受けるが、
さすがに国際世論から非難され、後に無罪となる。
アスピリーらはニューギニア方面作戦に協力していたチャンドラ・ボースの
インド国民軍に参加したインド人数千人に聴取し、
104件の告訴申し立てを受ける。
【告発した彼らの立場は微妙で、国家反逆罪に問われていた。】
しかも法廷で罪状が明らかにされた時、証言したインド人はすでに帰国。
裁判の体裁も何もなかった。
死刑囚を拘置する収容所で事件が起こる。
「建設作業中の大坪主計中尉がオーストラリア人の若い兵士の
運転するブルドーザーのキャタピラに噛まれてゆっくりひき殺されていった」

206:名無しさん@1周年
20/01/16 01:29:57 yYmiHOHi0.net
>>173
上皇后の差し金

馬と触れ合っている写真がたくさんある
適応障害の治療で乗馬もしていた(上皇后のおすすめで)

207:過去ログ ★
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