【理想的な思想のはずなのに】リベラルを標榜している政治家や政党は「他人には厳しく、自分たちには甘い」at NEWSPLUS
【理想的な思想のはずなのに】リベラルを標榜している政治家や政党は「他人には厳しく、自分たちには甘い」 - 暇つぶし2ch1:豆次郎 ★
19/12/10 02:22:50.13 GT+f+YaL9.net
リベラルへの風当たりが強くなっているのはなぜなのか?
萱野稔人
自由を尊重し、富の再分配を目指すリベラリズムが世界中で嫌われています。理想的な思想のはずなのに、なぜなのでしょうか? 11月28日に発売された『リベラリズムの終わり その限界と未来』(萱野稔人著)では、その原因、背景を哲学的に分析しました。「はじめに」を抜粋してお届けします。

リベラリズムが機能不全に直面している
ここのところ「リベラル」といわれる人たちへの風当たりがひじょうに強くなっている。
リベラルとは、その名のとおり「個人の自由を尊重する立場」の人たちを指す言葉だ。個人の自由を尊重するがゆえに、それを阻むもの、たとえば権力の濫用や不平等などを厳しく批判する。そうした立場の人たちが─個々の人間だけでなく、政党やメディアなどの組織も含めて─「リベラル」とか「リベラル派」などと呼ばれる。
その「自由を尊重する立場」の人たちが、なぜここにきて強い批判にさらされるようになっているのだろうか。
時代の流れをみれば、むしろ個人の自由を尊重する社会の傾向はかつてより強まっているように思える。
たとえばセクハラやパワハラを問題視する声はかつてに比べて高まっている(パワハラ:パワーハラスメントの略。優越的な地位にある人間が、その地位を利用して他者に精神的・身体的苦痛をあたえること)。
もちろん、だからといってセクハラやパワハラがなくなっているわけではまったくないので、それによって自由をめぐる状況が目にみえて改善していると述べるつもりはない。ただ、そもそも2000年以前には「パワハラ」という言葉すら存在しなかったことを考えるなら、こうした問題意識の広がりはけっして小さくない時代の変化にはちがいない。
にもかかわらず、現代において「リベラル」といわれる人たちへの風当たりが強くなっているのはなぜなのだろうか。
思い当たるふしがないわけではない。
実際、口ではリベラルなことを主張しながらも、実際の行動はまったくリベラルではない、という人はたくさんいる。
たとえば、私が所属している文系のアカデミズムの世界ではリベラルな主張を掲げる学者が多いが、そのなかには学生や大学職員、若手研究者に対してきわめて権力的にふるまう人も少なくない。
また、政治の世界でも、リベラルを標榜している政治家や政党が「他人には厳しく、自分たちには甘い」という姿をみせることはよくある。つまり、政府や他党に対してはどんなささいなことでも厳しく批判するが、いざ自分たちに同じような批判が向けられると、とたんに居直ったり自己保身に走ったりする、という姿だ。
こうした「いっていることと、やっていることが違う」という実態がリベラル派への批判を強めていることは否定できないだろう。
とりわけリベラルな主張は、権力批判にせよ、弱者救済にせよ、差別解消にせよ、理想主義的な響きをもちやすい。だからこそよけいに「立派なことを主張しているわりには行動がともなっていない、それどころかそれを裏切っている」というように、いっていることとやっていることの齟齬が目立ってしまうのである。
口でリベラルなことを唱えているからといって、その人がリベラルな人間とはかぎらないのだ。
だからだろうか、「リベラル」と「リベラリズム」を明確に区別しなくてはならない、という指摘が近年よくなされるようになった。つまり、たとえリベラル派には批判されるべき点が多々あるとしても、だからといってリベラリズムそのものまでが同じものとして批判されてはならない、という指摘だ。
リベラリズムとは「自由主義」と訳される言葉で、もっとも広くとらえれば、個人の自由を尊重する哲学的な原理のことである。「リベラル」が自由を尊重する立場の〝人〟を指すのに対して、「リベラリズム」はそうした立場の人がよってたつ〝考え〟や〝思想〟を指している。
要するに、リベラルとリベラリズムを区別すべきという指摘が主張しようとしているのは、リベラル派が批判されているのはリベラル派に問題があるからであって、リベラリズムそのものに問題があるわけではない、ということである。
続きはこちらで↓
URLリンク(www.gentosha.jp)


レスを読む
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch