「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」開戦78年 語り継がれる原爆の記憶 ある日系アメリカ人の物語at NEWSPLUS
「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」開戦78年 語り継がれる原爆の記憶 ある日系アメリカ人の物語 - 暇つぶし2ch1:ちーたろlove&peace ★
19/12/10 01:46:20.51 yzV90R239.net
「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」開戦78年 語り継がれる原爆の記憶 ある日系アメリカ人の物語
飯塚真紀子 | 在米ジャーナリスト
12/8(日) 9:13
米ロサンゼルスの全米日系人博物館では特別展「きのこ雲の下で」が開催中だ。筆者撮影
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 「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」
 1945年、広島で被爆した日系アメリカ人マリー・カズエ・スエイシ(通称カズ・ママ)さんは、戦後、アメリカに戻ってから、そんな言葉で罵倒された。カズ・ママさんがフラッシュバックに襲われたり、夜悪夢にうなされたりするようになったのは、それからだった。
 12月8日、日本は開戦から78年目を迎えた。来年は、終戦から75年目になる。
きのこ雲の下で
 原爆投下75年目を前に、今、米ロサンゼルスはリトル東京にある全米日系人博物館では「きのこ雲の下で:広島、長崎と原爆」という特別展が開催されている。同館は1992年に開館したが、原爆をテーマにした展覧会が開かれるのは今回が初めてだ。原爆に関する展示は日系アメリカ人社会では取り扱いが難しい問題だったからだ。
チヅコ・シモゴチさん(当時15歳)が被爆時身につけていたブラウス。筆者撮影
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中でも、来館者が立ち止まって凝視していたのは、「この先はご自身の判断で見ることをお勧めします」というサインの向こうに展示されている写真。火傷で苦しむ被爆者や救急所で手当を受ける被爆者、被爆者の遺体の写真など原爆の悲惨さを伝える写真が掲げられている。
日系アメリカ人の「無言の記憶」
 この特別展では、日系アメリカ人被爆者のセクションも設けられており、6人の日系アメリカ人及び日本人アーチストが作ったドキュメンタリービデオや写真、絵画で、日系アメリカ人被爆者の被爆体験を伝えている。このことは大きな意味がある。日系アメリカ人被爆者の多くは被爆した事実について長い間、口をつぐんできたからだ。
カズ・ママさんは、1927年、ロサンゼルス近郊のパサデナ生まれ。幼少期、両親とともに広島に移住し、18歳の時に被爆した。投下の一瞬についてこう語っている。
「青い空に白い斑点が見え、突然、とてもパワフルなフラッシュが起きたんです。一瞬のうちに、そこは天国から地獄へと変わりました」
 カズ・ママさんは向かいの家の軒下に駆け込んだ。気づいた時は体が動かなかった。軒の部分が上半身に覆い被さっていたからだ。信じられない光景も目にした。
「半分くらい水が入っている防火水槽の中に人々がいるから、水を飲もうとしているのかなと思ったら、死体だった」
「25人の小学校1年生が“お母さん”って言って泣き出したのです。そんな子供たちに、火傷で顔が風船のようにはれあがった女の先生が“我慢しなさい。お母さんは後で来るから”と言いました。翌朝、全員亡くなってしまった。先生も」
 戦後、カズ・ママさんはアメリカに戻ったが、待っていたのは心穏やかな生活ではなかった。
 「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」と罵倒され、フラッシュバックや悪夢にうなされるようになったのだ。身体にはブツブツやアザができ、日増しに痩せて行った。ぶらぶら病といわれる原爆症の後障害の一つだが、英語にすると「レイジー・シックネス(怠慢病)」。アメリカの医師たちは病気に理解を示さなかった。
カズ・ママさんは、当時ロサンゼルス検死局で検死官を務めていた医師トーマス野口氏の協力を得て、米保健福祉省を訪ね、日本の医師をアメリカに派遣してほしいと嘆願。1977年、日本の医師団がアメリカに派遣され、第1回在北米被爆者健診が行われた。医師たちは被爆者たちの心の痛みにも耳を傾けた。被爆者たちは大きな心の支えを得た。
 それでも、日本国外に居住する被爆者たちは長い間、「被爆者援護法(原子爆弾の被爆者に対する保障などを定めた日本の法律)」の対象外のままだった。彼らの原爆手帳申請が可能になり、彼らが「被爆者援護法」の対象者となったのは2000年代に入ってからだ。
(抜粋記事により全文はこちらへお願い致します。)
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