中曽根康弘元首相が死去 ★5at NEWSPLUS
中曽根康弘元首相が死去 ★5 - 暇つぶし2ch125:名無しさん@1周年
19/11/30 00:20:39.70 5aBduKjB0.net
>>65
短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受け、1941年(昭和16年)4月18日附で海軍主計中尉に任官
8月11日附で青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属
11月20日、第二設営班班員に補職
11月26日に広島県呉市の呉鎮守府(司令長官豊田副武大将、参謀長中島寅彦少将)に到着
鎮守府参謀長より第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦・一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される
11月29日、輸送船団は出発
中曽根は「台東丸」に乗船
12月8日の太平洋戦争開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島のダバオに上陸
上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた
次にボルネオ島のバリクパパンに向かう
途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される
日本軍輸送船団約20隻がバリクパパンの湾に進入したところ、湾内にオランダとイギリスの駆逐艦および潜水艦が突入
中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上
中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた
この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの海岸で、荼毘(火葬)に付した
中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる
友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜
夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ
当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った
彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。
美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。
『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。
この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです


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