19/11/29 23:28:34 Kh+CfrB09.net
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「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、中曽根康弘元総理大臣が亡くなりました。
101歳でした。
中曽根元総理大臣は、大正7年に群馬県高崎市で生まれ、昭和16年に旧東京帝国大学を卒業し、当時の内務省に入ったあと太平洋戦争を経験しました。
そして昭和22年の衆議院選挙で、旧群馬3区に当時の民主党から立候補して初当選し、その後自民党の結成に参加して20回連続で当選しました。
この間、昭和34年に第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として初入閣し、防衛庁長官、運輸大臣、通産大臣のほか、自民党の幹事長や総務会長などを務めました。
また改進党に所属していた当時、被爆国の日本でも原子力発電に向けた研究開発が不可欠だとして、原子力関係の予算案の提出を主導したことでも知られました。
中曽根氏は当時の佐藤栄作総理大臣の長期政権のもと、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫と並んで、いわゆる「三角大福中」の一角をなし、「ポスト佐藤」の候補として党内の実力者のひとりに数えられるようになりました。
昭和57年11月、自民党の総裁予備選挙で河本敏夫氏、安倍晋太郎氏、中川一郎氏を抑えて第71代の内閣総理大臣に就任し、「戦後政治の総決算」を掲げて、懸案の解決を目指しました。
昭和60年8月15日には、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社に公式参拝しましたが、中国などから強い批判を受けそれ以降は参拝を見送りました。
中曽根氏は行政改革などに尽力し、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の土光敏夫氏と二人三脚で「増税なき財政再建」に取り組み、当時の「国鉄」、「電電公社」、「専売公社」の民営化に取り組みました。
一方、外交面では総理大臣就任からまもない昭和58年1月に、当時関係がぎくしゃくしていた韓国を訪れて関係改善に道筋をつけて、そのままアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で強固な信頼関係を築きました。
互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うレーガン大統領との関係は、中曽根外交の基盤となり、昭和58年11月にレーガン大統領が日本を訪れた際には、東京・日の出町のみずからの別荘「日の出山荘」でもてなし、中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になりました。
昭和60年3月には、旧ソビエトのチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させました。
一方中曽根氏は、私的な諮問機関を設けることで、大統領型のトップダウン政治を目指したほか、日米貿易摩擦をめぐる記者会見では、みずからグラフを指し示したり、水泳や座禅をする様子を公開したりするなど、パフォーマンスのうまさでも知られました。
昭和61年には、「死んだふり解散」、「ねたふり解散」とも呼ばれる、衆参同日選挙を行い勝利を収め、党総裁としての任期が1年延長されました。
しかし、昭和62年4月の統一地方選挙で敗北し、みずからが目指していた売上税の導入を断念し、その年の10月には、当時「ニューリーダー」と呼ばれた、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏の中から、竹下氏を後継総裁に指名し11月に退陣しました。
中曽根氏の総理大臣としての在任期間は1806日と、当時としては異例の5年におよび、安倍、佐藤、吉田、小泉の4氏に次ぐ戦後5番目の長期政権となりました。
総理大臣退任後リクルート問題で、平成元年5月に衆議院予算委員会で証人喚問を受け、党を離れましたが、2年後に復党しました。
そして平成8年の衆議院選挙では、小選挙区制度の導入に伴い、当時の党執行部から比例代表の終身1位で処遇することを確約され、小選挙区での立候補を見送りました。
翌年には大勲位菊花大綬章を受章したほか、国会議員在職50年の表彰も受けました。
しかし、平成15年の衆議院選挙の際、当時の小泉総理大臣が、比例代表の73歳定年制の例外を認めず、中曽根氏は立候補を断念して56年に及ぶ国会議員としての活動に幕を閉じました。
中曽根氏は政界引退後も、安全保障や国際交流のシンクタンクの会長を務め、内政や外交をめぐって積極的な発言を続け、みずからの心境を「くれてなお 命の限り 蝉しぐれ」と詠んでいます。
とりわけ憲法改正には強い意欲を示し、新しい憲法の制定を目指す超党派の国会議員らでつくる団体の会長を務めてきたほか、おととし5月に出版した著書では、戦力の不保持などを定めた9条2項を改正し、自衛隊の存在を憲法に位置づけるべきだなどと提案しました。
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