19/11/20 12:47:04.50 ckD2K9i00.net
五木寛之が棄民の経験したの思い出した。俺たちもこうなるかもね。
五木氏は教師だった父母に連れられて生まれてすぐ朝鮮半島に渡り、
終戦の年は平壌(ピョンヤン)の中学1年生だった。夢は戦闘機乗りになることで、
負けるとは思っていなかった。
情報がまったくない中で、広島・長崎の原爆投下も大きなニュースにはならず、
8月9日に侵攻したソ連軍が迫っている事実も知らなかった。終戦の前日、父親が
「明日重大発表があり、ソ連が日本と同盟して、
米英に宣戦布告するらしい。これでもう大丈夫だ」と話していたぐらいだ。
だが、重大発表は敗戦を告げる「玉音放送」だった。「治安は維持される。
軽挙妄動を慎め。市民は現住所にとどまれ」というラジオ放送を信じていた。
軍上層部や官僚、財閥と家族が真っ先に、列車や飛行機で内地に向かっていたことを
知ったのは、戦後もだいぶたってからだった。