19/11/17 08:41:50.17 qJUEpjcl0.net
やってることが韓国と一緒w
527:名無しさん@1周年
19/11/17 08:46:43.41 Hp+PD4kO0.net
>>526
沖縄は韓国とは真逆
謝罪や賠償を強要してるのは沖縄ヘイトのおまエラ
528:名無しさん@1周年
19/11/17 08:48:59.96 qJUEpjcl0.net
>>527
ちゃんと薬飲めよ
529:名無しさん@1周年
19/11/17 08:51:52.06 PSPbfd/Q0.net
中国から復元できる職人を呼んで発注しそう
530:名無しさん@13周年
19/11/17 08:56:29.62 IOvLSHs0/
台風と違って、原因究明は簡単だし、早く終わる。
と言うか、早く終わらせなかった、現場も風雨でグチャグチャになるし、関係者も異動したり退職したりで、訳が分からなくなる。
関係書類だってシュレッダーかけられたら終わり。
こんなもんの原因究明や責任追求に時間がかかるというのは、ただ単に、それをやりたくないだけの、幼稚な嘘の言い訳だ。
そこまでは誰が考えたって早く終わる。しかし再発防止対策には時間がかかるだろう。
どうせ組織的な宿痾みたいな原因も絡んでるだろうからな。
それを是正するのは大変だよ。
531:名無しさん@1周年
19/11/17 08:54:31.55 MOMOJt+e0.net
お中国様に捧げます
532:名無しさん@1周年
19/11/17 08:56:07.24 0Wh7seCk0.net
木が無いから、同じような物は無理なんだろ
コンクリで良いのか
沖縄人で分けるか
533:名無しさん@1周年
19/11/17 08:57:25.09 EmxZm1N90.net
中国への臣従の証のポール建てるんだろw
尾長も税金で建ててたし
534:名無しさん@1周年
19/11/17 09:06:03 64vxJkZ30.net
首里城以外に使うのなら返して
535:名無しさん@1周年
19/11/17 09:07:13.65 WgV77oBA0.net
早々と一般会計に繰り入れて知事や県議のの飲み食いに使用され再建費は資金枯渇
「国は早くカネをよこせ」というパターンか
536:名無しさん@1周年
19/11/17 09:12:47.26 Hp+PD4kO0.net
朝貢
琉球王国が進貢使節団を中華王朝北京の紫禁城に派遣し進貢品を献上すると共に皇帝に拝謁する外交儀礼
海洋国家である琉球王国の国家運営を支える重要貿易政策
1372年に明の太祖(洪武帝)が朝貢を促す招論使として楊載を琉球に送り、中山王察度がそれに応じて入貢したのが始まり
琉球には中華王朝から進貢船として大型木造船を無償で与えられ
琉球が日本を含むアジア各国から調達した交易品を進貢使節団が指定入港地である福建省福州に持ち込んだ
琉球の交易品は中華王朝側が50倍、100倍の評価で買い上げ琉球側に莫大な利益を与えた
同時に琉球王府は官生(かんしょう)と呼ばれる留学生を送り中華王朝帝国の最高学府である国子監で数年間学ばせた
福州にあった琉球館が琉球使節団と留学生およそ200人規模の長期滞在施設となり、その滞在費と福州~北京間3000kmの旅費は全て中華王朝側が負担した
琉球使節団20~30人規模で福州から陸路で北京の紫禁城へ上り
進貢品と共に中華皇帝への拝謁を許されると、返礼として高価な絹織物や金品等の頒賜品が皇帝から与えられたり歓迎の宴でもてなされた
琉球から中華王朝への進貢は、ほぼ2年1貢で薩摩侵攻直後に10年1貢に制限されるが後に2年1貢に戻され
1678年からは清国側の許可を得て福州まで進貢使節団を迎えるという名目で接貢船を派遣した
これにより琉球は毎年進貢する形となり、より交易実績を上げる事に努めた
琉球進貢貿易は1874年に最後の進貢使節団が清国に派遣されるまで502年間続いた
537:名無しさん@1周年
19/11/17 09:14:06.51 Hp+PD4kO0.net
冊封
琉球王府からの要請(請封)によって、琉球国王の代がわりに中国皇帝に任命された冊封使とその使節団が琉球に派遣された
中華帝国の科挙を突破した超エリート官僚である冊封使が命賭けの航海を経て、首里城で琉球国王を承認し戴冠式を行う外交儀礼
1404年に明国から中山王武寧への冊封使派遣が始まりとされる
琉球は中華王朝の元号を使用するようになり
琉球国王と王妃には皇帝の詔勅書や王冠、琉球国王之印、皇帝直筆の四字の御書、数々の絹織物などが贈られた
琉球王国にとって当時のアジア先進超大国の中華王朝帝国は最大の交易相手国であり
海禁政策をとる中華王朝帝国が東アジアの国際秩序を形成した冊封体制下に入る事で
琉球王国は中華王朝帝国から政治の干渉も人事の介入も受けない独立国家として、アジア各国との交易にお墨付きを与えられた特権でもあった
冊封使節団は那覇港にあった迎恩亭で迎えられ琉球での滞在施設である那覇久米村の「天使館」に案内された
首里城での冊封の儀の前には、冊封使節団は那覇市泊にある王廟の「崇元寺」で新国王と琉球王府高官たちも参列した先王の葬儀(諭祭)を執り行った
冊封使節団300~500人規模の琉球滞在費用は全て琉球王府が負担し国賓待遇でもてなされた
冊封使節団の琉球滞在期間中は薩摩藩の在番役人たち(15,6人)も在番奉行所(御仮屋)がある那覇から離れ、浦添間切城間村に隠れていた
明から清へと続く中華王朝から琉球への冊封使派遣は
琉球王国成立以前の三山時代~王国最後の第ニ尚氏19代国王尚泰まで続き1866年清国からの冊封使派遣が最後となった
538:名無しさん@13周年
19/11/17 09:23:05.24 qHZRT1+rf
これは個人的な意見で、異論は有ろうが、伝統工法による木造で良いから、規模はグーッと小さくすべき。
原因究明や責任追求も出来ないということは、もはや組織や社会として、あのような施設を維持できないという事実の現れだろう。
大きな視野で見れば、そこが根本原因かも知れない。
少子高齢化と、ゆとり教育と、あとアスペルガーの急増で、人間の量も質も右肩下がりの国だ。
そこまで視野を広げれば、必ずしも沖縄県のせいばかりとも言えない。
例えば、知恵遅れの児童が、ナイフを欲しがってるからと与えて怪我したら、それは与えた親の方の責任だ。
かの東大寺だって、聖武天皇が建てたのは巨大過ぎて長持ちしなかった。
江戸時代に、一回り小さく、塔も省いて再建したら、丁度良くなって、以来、長持ちしてる。
身の丈に有ったもんでなきゃ持ちきれない。
539:名無しさん@1周年
19/11/17 09:28:29.01 Hp+PD4kO0.net
江戸上り(江戸立て)
琉球王国が国王の代替わりで謝恩使、徳川将軍の代替わりで慶賀使という使節団を江戸城まで派遣した
琉球王国の異国異文化アピールとなる外交儀礼
1634年、徳川3代将軍家光と琉球国第ニ尚氏8代国王尚豊の即位の慶賀謝恩使を京都の二条城まで派遣したのが始まり
およそ100人前後の琉球使節団で琉球の10代前半の男子が舞芸を披露する楽童子も派遣された
その後は警護に着く薩摩藩役人も含めおよそ1000人規模の行列となり
江戸城から琉球までその往復滞在費用は全て琉球と薩摩の自己負担であった
不定期で義務はなし、1850年19代尚泰王即位の謝恩使派遣を最後に1853年のペリー黒船来航~開国幕末期は日本と琉球に来航する欧米艦船も多く
国内滞留欧米人が増えたため、
幕府と薩摩藩は日琉関係が欧米諸国を通じて清国にバレてしまう事を恐れ
徳川13代将軍家定~徳川最後の将軍15代慶喜まで江戸上りは中止し
琉球王国は謝恩使も慶賀使も派遣せず
大政奉還(1867年)、戊辰戦争(1868-69年)後の1872年(明治5年)になって琉球王国は明治維新を祝う維新慶賀使を東京に派遣し明治天皇に拝謁している
540:名無しさん@1周年
19/11/17 09:28:36.71 YK/53V+40.net
全額反日反米闘争に使います 足りない分はキンペーさんから借りて来ます
541:名無しさん@1周年
19/11/17 09:35:16.38 Hp+PD4kO0.net
参勤交代
信長の時代からあった支配下に入った武士たちを城下に住まわせる服属儀礼
江戸時代の1635年、徳川3代将軍家光が「武家諸法度」によって大船建造の禁や日本全国の藩主諸大名が2年に1度、自ら江戸城まで来る事が義務付けられた
江戸城~各藩まで往復する大名行列およそ1000人規模の費用は全て各藩主諸大名の自己負担にさせ、諸藩の財政力を削ぐ事で幕府への謀反を抑制した
さらに藩主諸大名の妻子は人質として江戸に常住させられた
この参勤交代で徳川将軍家と全国諸大名の主従関係を示し、幕藩体制における諸藩が徳川幕府への忠誠を誓う軍役奉仕制度となった
参勤交代制度は1862年の「文久の改革」で緩和されたが徳川最後の将軍15代慶喜の大政奉還(1867年)まで続いた
江戸時代200年以上も鎖国政策をとっていた徳川幕府にとって、琉球王国は「異国の地」なので義務はなし
542:名無しさん@1周年
19/11/17 09:48:51.72 KaLKKud+0.net
ポッケないない