19/09/12 22:54:29.84 iiWrPkKf0.net
農業生産力と軍事力のバランスがいつ崩れるのかは今後の研究課題だが、
継体天皇が磐井に勝ってなぜ長門までしか獲れなかったのかは参考になる。
確かに畿内の巨大古墳は相応の軍事力の成せる業だろうが、それを同じ
九州の同盟関係でやる必要性もまた可能性も無い。拮抗した近隣同士で
は、そんな使役も権威の発露も無意味。みんな鉄器も生産力も持ってるw
鉄器という軍事的脅威と、それを最大限効果的に運用したことで初めて
巨大古墳を造営するための多数の被征服民を使役出来た。おそらく沢山
死んだんだろう。ちょっと手弁当でって規模じゃ無い。大和川付け替え
工事のような、賃金や食事の支給などろくに無かったと思う。特に大仙
古墳や誉田山古墳なんてでかすぎるし近すぎる。
結構平和的に暮らしていたかも知れない銅鐸民を、最大限残酷に征服して
いったんだろうね。