【古代】伊都国と奴国テーマに論議 飯塚で古代史連続講座 「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」at NEWSPLUS
【古代】伊都国と奴国テーマに論議 飯塚で古代史連続講座 「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」 - 暇つぶし2ch2:名無しさん@1周年
19/08/07 01:37:19.93 pVlDEskD0.net
そんな話良いから
物証探せよ

3:名無しさん@1周年
19/08/07 01:39:09.70 U/Fs2+hn0.net
ジャップは韓国をうらやましいですね。
だからといって在日を差別してはなりません。
とりあえず次の選挙から。

4:名無しさん@1周年
19/08/07 01:39:35.65 ULcVFlvj0.net
ふに落ちないとか言われましても

5:名無しさん@1周年
19/08/07 01:44:04.32 sz+Ey9iL0.net
────────確定
対馬国 (対馬)
一大国 (壱岐)
────────九州北部
末廬国 (海 千里)
伊都国 (東南 五百里)
奴国 (東南 百里)
不弥国(東行 百里)
────────不明
投馬国  (南に水行二十曰)
邪馬台国 (南に水行十日、陸行一月)

6:名無しさん@1周年
19/08/07 01:44:41.42 sz+Ey9iL0.net
────────確定
対馬国 (1000戸)
一大国 (3000戸)
────────九州北部
末廬国 (4000戸)
伊都国 (1000戸)
奴国 (2000戸)
不弥国(1000戸)
────────不明
投馬国  (5万戸)
邪馬台国 (7万戸)

7:名無しさん@1周年
19/08/07 01:45:20.96 0O2ctnfr0.net
また飯塚か

8:名無しさん@1周年
19/08/07 01:47:57.08 sz+Ey9iL0.net
>>6 の訂正
× 奴国 (2000戸)
○ 奴国 (2万戸)

9:名無しさん@1周年
19/08/07 01:51:23.83 BZbQo+rK0.net
対馬国 (1000戸)
────────確定
────────不明
一大国 (3000戸)
末廬国 (4000戸)
伊都国 (1000戸)
奴国 (2000戸)
不弥国(1000戸)
投馬国  (5万戸)
邪馬台国 (7万戸)

10:名無しさん@1周年
19/08/07 01:52:40.79 BZbQo+rK0.net
ここまでのまとめ
九州から出土する遺物、集落の痕跡は
すべて
57年から150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を独占してきた「漢委奴国王」の倭奴国のモノで
240年に「親魏倭王」に任じられた邪馬台国のモノでは無い

11:名無しさん@1周年
19/08/07 01:54:07.67 Jm0SFBVa0.net
京都あたりの土人がまだ狩猟と採集の原始人みたいな生活してるころに
九州ではもう伊都国(糸島市)、胸肩国(宗像市)奴国(福岡市東区)とかの都市国家があったな

12:名無しさん@1周年
19/08/07 01:58:18.15 sz+Ey9iL0.net
>>9
(釜山) 從郡至倭、循海岸水行、?韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
 ↓
(対馬) 始度一海千餘里、至對馬國
 ↓
(壱岐) 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國

13:名無しさん@1周年
19/08/07 01:58:56.80 BZbQo+rK0.net
>>11
んなもんねーよ
九州にあったのは筑紫国

14:名無しさん@1周年
19/08/07 02:00:26.07 BZbQo+rK0.net
>>12
一支国は(壱岐)ですが
一大国は(壱岐)ではありません

15:名無しさん@1周年
19/08/07 02:02:46.69 f05aA7k80.net
大企業が警察の天下りを受け入れる

その大企業が、邪魔な人間(ジャーナリストとか)の殺害を、
その天下り警官に依頼する

その天下り警官、手下の警官とヤクザに実行を指示

ヤクザ、ターゲットを殺害

手下の警官がその事件を担当。
「おれの経験じゃこれは自殺、自殺、自殺。はい捜査終了」
信じるか信じないかは・・・・
毎年出る 自殺者3万人、行方不明者10万人の本当の行方とは・・・・
\

16:名無しさん@1周年
19/08/07 02:04:26.61 BZbQo+rK0.net
西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国-対馬國-一大国(隠岐)-末廬国(松江)-伊都国(出雲)-奴国(因幡)-不弥国(摂津住吉)-投馬国(近江)を経て邪馬壱國(奈良)

唐(618年 - 907年)の時代、太宗の命で編纂された『隋書』倭国伝(636年完成)
百済-竹嶋-耽羅国-都斯麻国-一支国(壱岐)-竹斯国(筑紫)-秦王国-十余国を経て難波津-奈良

17:名無しさん@1周年
19/08/07 02:06:10.13 sz+Ey9iL0.net
>>14
んんん。。。。。なら・・・ほぼ確定

18:名無しさん@1周年
19/08/07 02:11:56.66 BZbQo+rK0.net
>>17
西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
台与につづき五王が、まだ朝貢しているときに書かれている
帯方郡ー韓国-対馬國-一大国(隠岐)-末廬国(松江)-伊都国(出雲)-奴国(因幡)-不弥国(摂津住吉)-投馬国(近江)を経て邪馬壱國(奈良)

唐(618年 - 907年)の時代、太宗の命で編纂された『隋書』倭国伝(636年完成)
遣隋使につづき遣唐使が、まだ往来している時に書かれている
百済-竹嶋-耽羅国-都斯麻国-一支国(壱岐)-竹斯国(筑紫)-秦王国-十余国を経て難波津-奈良

19:名無しさん@1周年
19/08/07 02:16:06.74 gFj3i+gd0.net
またプリウス飯塚に子供轢き殺されたのかよ本当いい加減にしろよ

20:名無しさん@1周年
19/08/07 02:24:15.66 sz+Ey9iL0.net
>>18
『隋書』
度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀

九州から出てないぞ

21:名無しさん@1周年
19/08/07 02:26:34.68 BZbQo+rK0.net
台与につづき五王が、まだ朝貢しているときに書かれている
西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里-
対馬國
- 海を渡る1000余里-
一大国(隠岐)
- 海を渡る1000余里-
末廬国(松江)- 伊都国(出雲)- 奴国(因幡)- 不弥国(摂津住吉)- 投馬国(近江)を経て邪馬壱國(奈良)

22:名無しさん@1周年
19/08/07 02:32:23.47 sz+Ey9iL0.net
>>21
隠岐は方角と距離が違いすぎる

23:名無しさん@1周年
19/08/07 02:33:28.56 J7gLMwid0.net
まだ続いてんの、これ?
そもそも >5 のとおりなら距離的に九州に収まってねーだろ。
放射状説は中国の古漢文研究家に否定されてんだから、直線ルート確定だろ?
実は単位が1/10です説採用するんなら、魏史の他の部分の記述と照合してみたわけ?
無理がありすぎんだろ。

24:名無しさん@1周年
19/08/07 02:36:07.33 BZbQo+rK0.net
>>20
なんでそんなに幼稚なの?
明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
大業四年(608)中国から裴世清が派遣され、日本にやって来た。
日本書紀によれば、小野妹子の帰朝に同道していたことになる
百済へ渡り、竹島に至る。
南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。
またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。
その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。
また十余国を経て海岸(難波津)に到達する。
チクシ国以東はみな倭に付属している。

25:名無しさん@1周年
19/08/07 02:38:23.50 BZbQo+rK0.net
>>22
舳先を南に向けると、対馬海流に流されて、隠岐
見島でも良いよ

26:名無しさん@1周年
19/08/07 02:40:28.20 sz+Ey9iL0.net
>>24
海に達するだろ
何で海を渡って大阪まで行ってしまうの?

27:名無しさん@1周年
19/08/07 02:45:57.91 sz+Ey9iL0.net
>>25
見島ならギリギリのギリだが・・・・・でもな~

28:名無しさん@1周年
19/08/07 02:46:23.30 BZbQo+rK0.net
>>26
日本が「来た」っつってんだから仕方がねーべ
『日本書紀』
その12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。
難波高麗館の上に館を新しく建てた。
6月15日難波津に泊まった。
船30艘で歓迎、新館に泊めた。
8月3日に京に入った。
「鴻臚寺の掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の上においた。
9月5日に難波大都に、11日に帰った。

29:名無しさん@1周年
19/08/07 02:46:55.63 5VH/C/6g0.net
>>7
邪馬台国は東池袋

30:名無しさん@1周年
19/08/07 02:48:33.01 BZbQo+rK0.net
>>27
大和王権の航海を担ったのは、出雲主王(宗像氏)だよ

31:名無しさん@1周年
19/08/07 02:49:00.01 1SBEHtAC0.net
>>3

川崎、神戸(尼崎)、京都は在日朝鮮人の巣窟
凶悪犯罪を繰り返す在日朝鮮人・帰化人がわきまくってるし

パンスト朝鮮顔を整形しまくったネトエラ(ネット工作の在日朝鮮人)がものすごい勢いで暴れまくってるからな。

日本に密入国してきて図々しく居つき、
生活保護を受給しながら性犯罪を繰り返し、
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
在日朝鮮人はスパイそのもの。
帰化人を含めて 朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。

●●● ネトウヨ連呼厨(ネトエラ)の正体 ●●●
URLリンク(karutosouka2.tripod.com)
.

32:名無しさん@1周年
19/08/07 03:07:19.41 sz+Ey9iL0.net
>>28
隋の役人を大阪まで招いたってことは解る
卑弥呼の時代ではないからね

33:名無しさん@1周年
19/08/07 03:18:02.00 BZbQo+rK0.net
>>32
間違いだっただろ
20 名無しさん@1周年 2019/08/07(水) 02:24:15.66 ID:sz+Ey9iL0
>>18
『隋書』
度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀

九州から出てないぞ

34:名無しさん@1周年
19/08/07 03:19:16.92 BZbQo+rK0.net
また『隋書』には、こうも書かれている
夷人不知里數但計以日
倭人は里数を知らないということは、
魏志倭人伝に書かれた里数はすべて、渡来人が思う里数ということになる。
九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
それから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を独占しており
渡来人は九州一帯の里数は間違わない
つまり、邪馬台国は九州には無い

35:名無しさん@1周年
19/08/07 03:28:10.21 /qtH/Nd/0.net
>>3
九州の朝鮮学校か?
日本語下手だな

36:名無しさん@1周年
19/08/07 03:29:32.39 /qtH/Nd/0.net
邪馬台国は大和国だって何度言わせるんだ
随書にも書かれているだろ

37:名無しさん@1周年
19/08/07 03:30:40.41 /qtH/Nd/0.net
九州なんて言ってるまともな学者はいないよ

38:名無しさん@1周年
19/08/07 03:31:17.05 BZbQo+rK0.net
また『隋書』には、こうも書かれている
夷人不知里數但計以日
倭人は里数を知らないということは、
魏志倭人伝に書かれた里数はすべて、渡来人が思う里数ということになる。
九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
それから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を独占しており
渡来人は九州一帯の里数は間違わない
しかし、渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられている奈良ならば、渡来人は方位も里数も間違いまくる
つまり、邪馬台国は九州には無い

39:名無しさん@1周年
19/08/07 03:52:15.06 sz+Ey9iL0.net
>>33
隋書では九州から出ていない
日本書紀では大阪まで来てる
これで考えられる事は・・・・
①隋書が合ってて日本書記が間違ってる
②隋書が間違ってて日本書記が合ってる
③どちらも合ってる
④どちらも間違ってる
ま、どれでもいいんだ
所詮は隋の時代の話だからね

40:名無しさん@1周年
19/08/07 03:54:55.59 sz+Ey9iL0.net
>>38
 >渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられている奈良ならば、渡来人は方位も里数も間違いまくる

意味不

41:名無しさん@1周年
19/08/07 03:55:22.32 VNfqf3wk0.net
卑弥呼の埋葬地は平原だな。これは確定

42:名無しさん@1周年
19/08/07 04:10:35.26 BZbQo+rK0.net
>>39
『隋書』に
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた
なんて書かれているから、日本書紀ガン無視して必死だな(笑)
九州説は、所詮、そんな幼稚な話なのさ m9(^Д^)プギャー
だから
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
というわけだ

43:名無しさん@1周年
19/08/07 04:41:04.58 a56sSw6O0.net
強迫性障害で、人生が止まり停滞しているあなたへ
子どもさんの強迫に巻き込まれて、家庭崩壊寸前状態のご家族へ
URLリンク(822pj.crayonsite.info)

44:名無しさん@1周年
19/08/07 07:37:26.63 4GWBzahp0.net
大陸との交流もこんなのんびりしたもんなら大歓迎だがな

45:名無しさん@1周年
19/08/07 08:40:49.56 Tp3hpMNx0.net
奈良で決まり
以下引用
日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。
漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られた。

46:名無しさん@1周年
19/08/07 08:56:44.31 9gCcz/S70.net
邪馬台連合の南端に有り、狗奴国連合と境を接していた投馬国(水行のみの記載から島国、おそらくは熊本県の天草郡)と同様に
福岡県の粕屋郡に有った不弥国こそ邪馬台国連合の東端であり、だからこそ方角里程が記されたのですよ。
その東の遠賀川流域には別系統の小国家群が有ったでしょう。それは博多湾沿岸とも有明海沿岸とも異なる出雲系の小国家群です。
半島南部(多羅)にいた倭人たちの王であり九州島に渡来した侵略者、ワカタラシヒコ、オキナガタラシヒメたち率いる軍団が集結した岡の湊に
伊都国の王イトデ(アメノヒボコの末裔を自称)と同様に白旗を掲げてやってきた熊鰐(嘉麻和邇、嘉麻王仁)なる人物こそ
この遠賀川流域一帯の小国家群を配下に治めていた大国(嘉麻国)の王でしょう。
伝統と歴史ある伊都国がポッと出の新興国家、邪馬台国との戦争に敗れたのが倭国大乱。
遠賀川流域は、この大乱にあっても宗像国と同様独立を守り、平和的な国家を存続させていったと思われます。
後に肥の国から、装飾古墳を特徴とする新手の、しかしこれもまたすぐに消えていった新興集団たち(おそらくは航海民でしょう)に侵略されるまでは。


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