19/07/26 06:02:11.89 cTEsh0/u0.net
梅雨が明け、真夏の日差しが降り注ぐ沖縄から、極道業界内に訃報がもたらされた。
7月12日、“沖縄のドン”である旭琉會・富永清会長が、息を引き取ったのだ。
激動の時代を駆け抜けてきた富永会長の極道人生は、抗争を抜きにしては語れない。
昭和21年、久米島に生まれた富永会長は、中学を卒業したのち神奈川県へ移り住み、横浜の高校に入学。
柔道部で活躍し、スポーツの名門大学へと進学した。帰郷後は地元の不良グループのリーダーとなり、那覇へ渡ったのである。
富永会長が業界に足を踏み入れた昭和42年、沖縄は大規模な抗争を経て那覇派・山原派と普天間派による“第三次沖縄抗争”の渦中にあった。
富永会長は山原派の一員として普天間に乗り込み、襲撃を受けながらも応戦。敵対する組員に暴行を加えたとして逮捕、起訴され、執行猶予付きの判決を受けた。
“第三次沖縄抗争”は普天間派のトップが射殺され、解散となったことで終結するが、昭和45年ごろには三代目山口組(田岡一雄組長)系の有力組織が沖縄に進出。
危機感を募らせた地元勢がまとまり、山原派の長老・仲本善忠親分を会長とする「沖縄連合旭琉会」を結成した。
ところが、旧山原派「上原一家」の脱退をきっかけに、昭和49年から“第四次沖縄抗争”に突入。
同51年には多和田真山