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纏向遺跡
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そこで今回は、奈良県大和盆地南部の巻向地区にある箸墓古墳を中心に近くにある纏向(まきむく)遺跡と大神(おおみわ)神社の探訪記です。季節は5月末のことです。
この古墳は全長280mと大きく堂々とした風格ある森の姿で国道169号線のすぐ脇にありました。日本最古の前方後円墳のひとつで3世紀中頃から後半の築造と推定されています。正式名称は「倭迹迹日百襲媛命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)」という名前で、この倭迹迹日百襲媛命は、すぐ近く数km南にある日本最古の神社である大神(おおみわ)神社に神として祀られている大物主命(おおものぬしのみこと 大国主神のこと)の妻となっています。神々の時代の話なのですが、古墳そのものは実在し築造年代もほぼ科学的に推定されていますので、この古墳は一体誰の陵墓なのか、最古の古墳の被葬者は誰なのかが昔から論じられて来ました。そこで3世紀半ばに没したと魏志倭人伝に記述のある邪馬台国の卑弥呼の墓であると古くから見られて来ました。卑弥呼の墓であるなら、邪馬台国は箸墓古墳のある巻向の地に王都があることになり、邪馬台国九州説は完全に否定されてしまいます。従って、現在でも大和説と九州説との論争は果てしなく続いていますので、この箸墓古墳の被葬者もまた学術的には確定していません。
ただ私は、この箸墓古墳からすぐ近くJR桜井線の巻向駅周辺に広がっている纏向遺跡こそ邪馬台国の王都だったと思っていますので、やはり陵墓は卑弥呼のものであるはずです。
巻向駅のそば、辻地区で掘立柱建物の柱列跡が発掘されて、ここに纏向遺跡の居館群があったと分っています。建物群は3世紀前半に建てられたとみられています。中心的な大型の掘立柱建物は約19m×約12mの規模があり、当時としては国内最大の規模と推定されていますので、これら建物群の復元が出来るだけ早く進むことを願っています。話は変わりますが、一時期、邪馬台国九州説が相当な勢いを持ったのは、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の発掘と復元が急速に進んで、弥生時代の大規模な環濠集落や墳丘墓が目に見えるようになったことからだと思っています。吉野ヶ里遺跡にも行ったことがありますが、復元された集落の大きさや楼閣の高さなどを実際に見ると圧倒されて、ここが邪馬台国の王都と思い込んでしまいそうになるほどでした。でも、やはり、大和の地こそ、邪馬台国に相応しいし、すぐ後の時代に実在した大王(おおきみ、天皇)である崇神天皇の陵墓とされる行燈山古墳もほんの2km北にあり、初期の大和王権の所在地磯城(しき)とも近いので、纏向遺跡が邪馬台国の王都で、初期大和王権は何らかの形でそれを実質的に引き継いだ(乗っ取った)のではないかと私は考えています。事実、纏向遺跡も箸墓古墳の完成の後、建物群が廃絶されていますので、何らかの権力の移行があったのではないかと想像しています。
この箸墓古墳もまた天皇家に連なる人物の陵墓ということで宮内庁の管理下にあり、一切の調査はなく立入りは厳禁されていますので、本当に卑弥呼の墓なのかどうかは判定できないままです。卑弥呼が魏の皇帝から与えられた「親魏倭王」の印綬が副葬品として出てきたら、これは決定となるのでしょうが、当分は古墳の調査がなされない以上、結着はつきそうにありません。残念です。私には、ここ纏向遺跡をAR・VRで復元して邪馬台国の王都の姿を見て感動したいという夢があります。一日も早く実現してほしいのですが、遺跡の発掘が1971年以降継続して実施されているものの、現在までのところ南北約1.5km、東西約2kmにおよぶ対象地域のうちの5%程度しか調査できておらず、今後数十年はかかるとの予想ですので、AR・VRで邪馬台国の復元王都を見るという私の夢は果されることはなく終わりそうです。宮内庁には一日も早く古墳の調査を専門家に認めてもらいたいものです。宮内庁管理の陵墓こそ、日本の歴史上の貴重な文化財であり、第一級の世界文化遺産に相当すると思っています。日本人の誇りなので、もっと多くのことを知って理解したいのです。
最後に箸墓古墳の近くにある日本最古の神社、大神神社について触れておきます。この大神神社は山(三輪山)そのものを御神体とし、本殿を持たず拝殿だけという古い形を残している神社で、祭神は大物主命、即ち、国造りの神です。つまり、大和盆地南部は国造りの地であり、邪馬台国や卑弥呼との関係、初期の大和王権との関係、祭司を勤めた豪族大三輪氏との関係など国造り、国譲りの出雲神話とも重なり興味が尽きません。(続きはソース)
著者/平田正之(㈱情報通信総合研究所 前・顧問)
2019年7月1日掲載
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