19/05/15 16:26:57.53 Axa2KMS80.net
倭人伝に記録された、魏使の来日は2回だけである。
247年張政は、倭人船に便乗してきて伊都までで旅は終了駐留させられている。
糸島北西岸から5百里を歩かされて、博多湾に隣接する伊都に来た。
238年から247年の間に魏は、公孫氏と韓王朝を滅ぼしているので
日本が、この魏の査察官には、軍事的に博多湾を見せなかったのかもしれないが
この行程の間で、直系150mの卑弥呼の墓を見ている、という面もある。
この卑弥呼の墓は対外的はったりで作った、日本初の張りぼて古墳と考えて良い。
伊都は 丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
卑弥呼に属する王は皆伊都を往来していたので、
張政は、壹與と難升米に檄を告諭して、仕事は終えた。
帰国便は、倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 の船。
238年は魏の将校遣建中校尉梯儁が軍船で九州上陸後、
陸行一月という謎の行軍で卑弥呼宮で、印綬を行っている。
この時は、漢四郡を攻略した直後で、韓の支配はまだだが、
238年の返礼であり皇帝の使者として、魏の軍船で未知の他国に来ているわけで
博多から中津辺りに陸行して、別の船に乗り換えは無いw
魏使が畿内に入った説に有り得るのは、確かに日本海ルートのみである。
辻褄が合うかと言えば、方角も道里も無茶苦茶では辻褄も糞もない。
卑弥呼宮は九州内に有った、が、道里つじつまが合う。