19/04/22 23:49:11.48 J+KoBUDs0.net
■「本人のため」と強制
旧優生保護法の前身は、ナチス・ドイツの断種法の考えを取り入れたとされる国民優生法(40年)。
公益上必要な場合、本人の同意なく不妊手術が可能とされた。ただ、戦時中は「産めよ殖(ふ)やせよ」の時代だったので
、同法の下では不妊手術はほとんど行われなかったといわれる。むしろ、民主主義の旗を掲げ建前上は優生思想が否定されたはずの戦後に、
強制的な不妊手術が数多く行われた。統計に残っているだけで1万6千を超える人が手術を強いられた。
全都道府県に及び、最多が北海道の2593人、最少が沖縄県の2人だった。
背景としては戦後、戦地からの引き揚げ者や出産ブームにより人口が急増し、食料不足などに対応するため、
人口抑制が大きな政策課題となったことが挙げられる。敗戦を受けて「日本民族の再興」を目指した政治家や官僚たちの発想の大本に、
遺伝性とされた病気や障害を持つ人の子孫を絶やすべきだという優生思想的な考え方が根強く残っていたことも見逃せない。
障害者が子どもを育てるための支援環境が整っていない中で、「本人のため」などと親が行政などから説得され事実上強制的に手術が行われた例もあるという。
旧優生保護法は、障害者から基本的人権を踏みにじるものとの抗議の声が強まり、96年に強制不妊手術などの差別的な規定が削除され、
母体保護法に改まった。同様の法律により不妊手術を行ったドイツとスウェーデンでは、国が被害者に謝罪と補償をしているが、
日本ではハンセン病患者を除き救済は放置されたままだ。
96年の法改正時の国会審議が改正案提出から成立までわずか5日間と短く、国会での論議が深まらなかったことが響いた。
また96年以降、新聞などの報道が散発的だったこともあって、世論は大きく盛り上がるには至らないまま推移した。
毎日新聞仙台支�