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溝の中から散乱した状態で見つかった人骨=平成12年、鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡
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■異様な発見
人骨は平成12年、遺跡の中心域の東側で、幅9メートルほどとみられる溝状の遺構から発見された。取り上げられた数は約5300点。鳥取大医学部で確認したところ、少なくとも109体分あった。
そのうち約110点、約10体分には刀や矢などで傷つけられた痕があった。骨の特徴からみると、成人男女から5歳ぐらいの子供まで。15~18歳とみられる女性の頭蓋骨には、額に鋭利な刃物で突かれたような三日月形の穴があった。別の骨盤の骨は矢で射られた上、切りつけられており、彼らは武器で殺傷された犠牲者と考えられた。
骨の出土状況もまた、異様だった。普通の埋葬の場合だと、骨は人体の構造に沿った形で見つかるが、同遺跡では2体を除いてバラバラの状態。(省略)
■最新の技術でルーツを解明
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国立科学博物館の篠田謙一副館長らの昨年11月の発表によると、32人分の人骨のミトコンドリアDNAを解析したところ、ハプログループは29種にも分かれ、互いに密接な血縁関係がないことが判明。大部分が大陸の渡来系のハプログループで、日本在来の縄文人が持っていたハプログループは1人だけだった。
■日本人のルーツ「二重構造説」
日本人の成り立ちで定説になっているのが、弥生時代に大陸から渡来した人と縄文人との混血が、北部九州から東へと移っていき、現在の日本人につながっているとする「二重構造説」だ。
現代の日本人には縄文系のハプログループが20~30%あるという。ところが、同遺跡の人骨のミトコンドリアDNAの解析では、縄文人が持っていたハプログループはわずか3%にすぎず、弥生時代も後期なのに縄文人と渡来系の弥生人の混血が進んでいなかったようにみえる。
またハプログループが多様だということから集団の特徴も明確になった。長い時代にわたって同じ場所に住んできた「ムラ」では、特定のハプログループが突出する傾向があるとされる。母系がつながっている人たちがずっと住み続けた結果だ。これに対し、母系がバラバラの同遺跡の人たちは、血縁関係のない人たちが住み合わせる「都市」的な人模様だったと考えられる。
同遺跡はこれまでも、出土した遺物の性格などから「日本海の交流拠点」だったと考えられてきた。ミトコンドリアDNA解析の結果はそれを裏付けるように、人が盛んに行き来していたことを示した。
一方、1万6500の塩基からなるミトコンドリアDNAに対し、核DNAは30億からなるため解析には時間がかかり、解析結果が公表されたのは今年3月だった。サンプルとして選んだ6人分の人骨について核DNAを解析し、4人からY染色体の塩基配列データが得られた。そのハプログループは大半の3人が縄文系だった。
ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが大多数だったのに対し、核DNAのY染色体の解析から父系は縄文系が多いという結果に。また核DNAの解析結果でも複数のハプログループが確認され、遺伝的な多様性が判明した。この結果は長く続いた閉鎖的な「ムラ」ではなかったことを補強している。
篠田副館長は同遺跡の人骨の研究成果は、従来の「二重構造説」が唱える単純なモデルに当てはまらないとし、「(日本の広い範囲で)大陸との(直接の)交流の中から、日本人が生まれてきたというのが真実に近いのではないか」とみる。
■殺傷の謎は
人骨が血縁で結ばれた“一族郎党”ではないと分かったことで、誰が、なぜ殺傷され、集団で溝に埋められたのかについては疑問を深めることとなった。一般的な血族集団間の争いなどではないと思われるからだ。
中国の史書「魏志倭人伝」には弥生時代後期に当たる時期、「倭国乱れ、相攻伐すること年を暦たり」と記されている。「後漢書」にも「桓霊の間、倭国大いに乱れ」とある。「桓霊の間」は2世紀後半を指す。同遺跡の人たちは、そうした争乱の犠牲者だったのだろうか。
人類学の観点からも、同遺跡が大陸も含めて人の交流が活発な場所だったと証明されたことで、骨を残したのはどんな人たちで、なぜ傷つき一挙に埋められたのかについて「解釈が難しくなった」(篠田副館長)という。研究プロジェクトは核DNAの解析を今後もさらに進め、こうした謎に挑もうとしている。
産経WEST 2019.4.5 08:00
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★1:2019/04/05(金) 16:59:10.98
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