19/02/18 21:03:08.93 rzIb1ylA0.net
>>492 >>493 >>494 >>495 >>496 >>490 >>491
降伏前は日本軍上層部は無策だとするものがいるが、これは間違いで
最終作戦は一億玉砕によって敵が戦意を放棄することだったらしい
URLリンク(ja.wikipedia.org)玉砕
本土決戦と一億玉砕
戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」
などをスローガンとした[3]。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使
用されていた[4]が、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋など
の日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。
1944年(昭和19年)6月24日、大本営は戦争指導日誌に以下の記載をした。
もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ— [5]
1944年(昭和19年)9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束
を固くする以外方法がない」と主張した[6]。1945年(昭和20年)4月、戦艦大和の沖縄出撃は、軍内の
最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)
との表現が使用され[7]、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。
URLリンク(ja.wikipedia.org)国民義勇隊
国民義勇戦闘隊は、1945年(昭和20年)6月22日に公布・施行された「義勇兵役法」
にもとづく民兵組織である。国民義勇隊と一応は異なる組織であるが、国民義勇隊を
基礎として編成されたため、組織の多くが流用され共通している。原則的に従来の
市町村国民義勇隊・職域国民義勇隊が基本単位となり、小隊は「戦隊」と呼び変える
などとされたが、実際の編制・運用は各市町村などに委ねられた。義勇兵役の対象は
原則として男性は15歳ないし60歳、女性は17歳ないし40歳となっており、必要に応じ
て義勇召集して国民義勇戦闘隊員とすることができたほか、年齢制限外の者も志願す
ることが認められていた。
義勇兵役法には「朕ハ曠古(こうこ)ノ難局ニ際会シ忠良ナ
ル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ」と異例ともいえる上諭
がつけられており、「一億玉砕」が単なるスローガンではなかったことをうかがわせる。
義勇戦闘隊は2800万人が本土決戦に動員される予定だった。