19/02/06 06:59:23.29 ZxtERN1i0.net
>>1
浄土真宗はいまいち好きじゃないけど歎異抄は好き。
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たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて
仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、
すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もをよびがたき身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし。
「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころをろそかにさふらふこと、また、
いそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにて
さふらふやらん」と、まうしいれてさふらひしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、
唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに
よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。
よろこぶべきこころををさへてよろこばせざるは、煩悩の所為なり。
また、あるとき、「唯円房は、わがいふことをば信ずるか」と、おほせのさふらひしあひだ、
「さんさふらふ」とまうしさふらひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、
かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まうしてさふらひしかば、
「たとへば、ひとを千人ころしてんや。しからば往生は一定すべし」と、おほせさふらひしとき、
「おほせにてはさふらへども、一人も、この身の器量にては、ころしつべしともおぼえずさふらふ」と、
まうしてさふらひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとは、いふぞ」と。
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、
すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。
わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」と