18/12/23 18:04:52.77 rLJFrx8x0.net
2006年1月31日、この日までに払わなくてはならないアパートの家賃3万円はどこにもなかった。手持ちの現金はわずか7000円ほど。康晴は親族に相談することもなく、自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。
康晴は自宅アパートをきれいに掃除をして、親族と大家宛ての遺書と印鑑をテーブルに置いた。その間、康晴は何度も母親に「明日で終わりなんやで」と話しかけている。
最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。電気のブレーカを落とすと、康晴はリュックサックに死ぬためのロープ、出刃包丁、折りたたみナイフを詰めて、車いすの母と2人アパートを出た。
2人が向かったのは、三条の繁華街だった。康晴がどこに行きたいかと尋ねて、母親が「人の多い賑やかなところがいいなあ」と答えたからだった。1人300円の運賃を払って淀駅から京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。
駅を出ると鴨川が流れている。2人はしばらくこの川のそばで時間をつぶしている。やがてにぎやかな新京極通りをに向かった。
この通りの入口にそば屋がある。康晴がまだ子どもの頃、親子3人で食事をしたことのある店だった。
しかし手持ちの金が多くないため、食事はしなかった。
夜、母子は伏見にいた。もう戻ることのできないアパートの近く、桂川の河川敷。次にどこへ行きたいかと聞かれて、母親が「家の近くがええな」と言ったからである。午後10時のことだった。
2月1日。厳しい冷え込み。康晴は車椅子の母に防寒具をかけてやった。それから何時間か過ぎた。
「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」
康晴は泣きながら目を覚ましたばかりの母に語りかけた。母親は「すまんな」「ごめんよ」と泣きじゃくる息子の頭を撫で、「泣かなくていい」と言った。
「そうか、もうアカンか、康晴。一緒やで。お前と一緒やで」
「こっち来い。こっち来い」
母に呼ばれた康晴が近づいたところ、額がぶつか�