18/12/01 12:32:29.19 JNJAHO+B0.net
>>956
日本書紀で古人大兄皇子は入鹿のことをカラヒトと呼んでいる。
入鹿は母親が鞍作氏でその里で育ったからとか、百済人の服を着ていたから
とか言われている。
飛鳥寺の竣工式のときに蘇我氏の一族は百済人の服装で出席し、人々は
みな喜んだとある。
百済人の服装は中国人とは異なっていた。
だから百済人と中国人は明白に区別され、呼び方も違っていたのではないか。
新羅が親唐政策を採って国の風俗を全部唐風に一変させた。
その様子を見て唐は新羅を支援することになったという。
その頃日本の難波津にやってきた新羅の使者は中国人の服装をしていた。
日本の役人は怒ってこれを追い返したという。
当時、カラというのは任那地方を意味していた。
伽耶・加羅も同じ。
中国人をカラヒトとは言わなかったと思うな。
東漢氏・西漢氏 は同族ではない。渡来時期も異なるようだ。
一緒くたには扱えない。