18/11/23 20:05:47.03 ogj3RLpi0.net
岡田慶治陸軍少佐はその手記「青壮日記」に
「故なき罪を一身に受け」と書き記している
戦犯処刑者の中でも、青地鷲雄の獄死は悲惨であった
ここに必要な女性は抑留所から希望者をつのり、未成年者は断り
いちいち契約書に署名させたのは、青地老の性格でもあったろう
しかしこうした手堅さも空しかった
希望して働いた筈の女は、ほとんどが被害者として証人にたち、
裁判ではすべて青地老が甘言を以て誘惑し未成年者までも強制したとされ
あらゆる弁明も証言も一蹴されてしまったのである
無期を判決された青地老は、刑務所参観者の前にさらしものにされ
悪罵と嘲笑の中で、判決後数日後に死んでしまったのである。
死因は衝撃の激しさからとか病死とか伝えられたが、多くの人は明かに自殺だと思っている。
青地老は大正十年頃夫婦でジャワに渡り、バタビアのモーレンフリート街に
日本人相手のホテルを経営した。ジャワに渡るほどの日本人は、ほとんど裸一貫から一旗あげようとする連中で、
目標も何もなく渡航してくるため忽ち無一文となって食うに困るのだが、
俠気:男気。強きをくじき弱きをたすけるこころだて)の青地老はこうした連中を
一カ月でも二カ月でも無料で泊らせ、激励しては、仕事を世話したりしていた。
特に青地老はインドネシア語はもちろん、オランダ語も英語も流暢であったため
バタビアの裁判所は日本人の犯罪人を裁く場合には、必ず青地老に通訳を委嘱したものであった。