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・ちゃんとした学者の文献の例
飯塚警察署の特高主任だった柿山重春さんは、
麻生が坑夫を納屋制度でがんじがらめに縛り付け、徹底的な圧制のなかで働かせ、一方的に酷使していた点
に問題があるとしている。争議によって納屋制度が改革されたという(『林・記録』三六八頁)。
納屋制度の改革はうわべだけのものであり、「暴力搾取」の実態は継続し、強制連行が始まると
その酷使は形を代えて復活していったといえるだろう。
日本政府は一九三二年十一月に「強制労働に関する条約」を批准している。
この条約は一九三〇年の国連総会で批准され、一九三二年五月に発効されている。
麻生での朝鮮人争議はこの強制労働条約が日本で批准されようとするなかで起きている。
納屋に押し込め、暴力で労働を強制し、労災者を解雇するといった麻生の労務管理の実態は、
この強制労働条約に反するものであった。
暴力廃止を掲げて抗議に入った朝鮮人労働者は
この強制労働の廃止にむけての条約の実現を現場で体現するものであったといえるだろう。
麻生系炭鉱に連行された朝鮮人の数についてみてみよう。
厚生省勤労局調査「朝鮮人労務者に関する調査」福岡県分の史料にある集計途中の表によれば、
計一万六二三人を連行されたとある。全国各地から勤労報国隊の形で強制的に動員された人々
のなかには朝鮮人もいた。これらの人々を加えると戦時下に麻生系炭鉱に動員された朝鮮人の数
は一万五千人を超えるだろう。
一九四〇年に連行朝鮮人の受け取りを監視に行った請願巡査の松藤要吉さんは次のようにいう(『林・記録』)。
炭鉱は県当局に請願して炭鉱専用の巡査を配置した。
その仕事は労働運動を抑えることと朝鮮人の取締りであり、炭鉱資本の番犬だった。
この証言から、連行された労働者は麻生と警察によって監視され、計画的な連行がおこなわれ、
連行された朝鮮人は「消耗品」として扱われたことがわかる