18/08/18 22:12:29.01 4i+F8o8R0.net
>>839
満州国の北・東・西を放棄して、南部と朝鮮に退いた
関東軍 - Wikipedia
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1945年5月ドイツ敗北後、ソ連軍の極東への移動が活発になった。
6月4日梅津参謀総長は大連に赴き、日ソ開戦時、一部の満州地域を放棄し、
防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を関東軍に命令した。
同年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。
満州に侵攻してきたソ連軍に対し、10日大本営は朝鮮防衛と司令部の移転を命令した。14日関東軍司令部は通化に移転。
これによって関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と後に非難されることとなった(殖民を守る部隊が全く存在しなかったゆえに葛根廟事件という悲劇まで起きた)。
一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、
反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎えた。正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった。
「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜10時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。
ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。
停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。
大連・・・満州国の南西端の更に南、遼東半島南端
新京・・・満州国南部にあった首都。現在の長春
図們・・・満洲国南東端。現在の北朝鮮の北東端と国境を接する
通化・・・満洲国南端。現在の北朝鮮の北部と国境を接する