18/08/16 18:41:37.11 g0BHNq3t0.net
>>342 >>706
当時、満州国の首都の新京だけでも、約14万人の日本人市民が居留していたが、
1945年8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし、3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は、
・軍人関係家族 2万310人
・大使館関係家族 750人
・満鉄関係家族 1万6700人
・民間人家族 240人
この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは、関東軍総参謀長・秦彦三郎の夫人であり、
この一行の中にいた関東軍総司令官・山田乙三の夫人と供の者は、平壌からは飛行機を使って、8月18日には無事日本に帰り着いた。
当時、新京在住で夫が官僚だった“藤原てい”による「流れる星は生きている」では、避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、
“藤原てい”自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出した、と記述している。
また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していた“なかにし礼”は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、
軍人とその家族は、民間人の裏をかいて、駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出した、と証言している。