【アイヌ民族】アイヌ新法に「先住民族」明記へ 政府が最終調整★3at NEWSPLUS【アイヌ民族】アイヌ新法に「先住民族」明記へ 政府が最終調整★3 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト103:名無しさん@1周年 17/09/02 01:35:50.30 RuPIr0vd0.net 以下、wiki抜粋 元朝によるアイヌ攻撃[編集] 1264年の遠征[編集] アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた「吉里迷」(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した[10]。 翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、「骨嵬」(クイ)や「亦里于」(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。 ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる[5][11](亦里于に関しては不明)。この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[12]。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、 日本に対する侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早かった。 1284-1286年の連続攻撃[編集] この後、元によるアイヌ攻撃は20年ほどのあいだ、見られなくなる。ただし1273年には塔匣剌(タヒラ)が征東招討司に任命され、アイヌ攻撃を計画したが[13]、賽哥小海(間宮海峡)の結氷を待つとの理由で、 結局実行には移されなかった[14]。 しかし日本に対する2度目の侵攻(弘安の役、1281年)の失敗後、1284年に聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、アイヌ攻撃が命令された[15]。この計画はいったん見合わせとなったが、 同年の冬に征東招討司による骨嵬征伐が20年ぶりに実行に移されている[16]。 その翌年(1285年)にも元朝は征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・楊兀魯帯(ウロタイ)に命じて兵力1万人で骨嵬(アイヌ)を攻撃させた[17]。 さらにその翌年(1286年)にも3年続けてアイヌ攻撃が行われた。このときの侵攻では「兵万人・船千艘」を動員したとされ[18]、前年もほぼ同様の規模であったという[5]。 この遠征には兵站確保のため、屯田も設置されたが、翌1287年のナヤンの乱などの動揺もあり、長くは続かなかった[19]。 アイヌの樺太撤退と反撃[編集] これ以降、元からアイヌへの攻撃は止むが、元の勢力圏外からアイヌによる攻撃があったことが元側の記録に頻出する[20]。 中村和之はこれらの動きから、元によるアイヌ攻撃は、アイヌによる黒竜江流域への侵入を排除するために行われ、アイヌの根拠地を攻めて滅亡させる目的ではなかったとし、 1284年からの3年連続の攻撃により、アイヌ勢力は樺太からほぼ排除されてしまったと主張する[21]。元朝は、樺太南端に前進基地として「果夥(クオフオ)」城を設けている。 西能登呂岬に遺跡が残る白主土城は、アイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、ここで言う「果夥」であった可能性が高い[21][22]。 元軍はこの果夥を拠点として、宗谷海峡を北上しようとするアイヌを牽制したものと思われる。これ以降、アイヌは樺太に対して散発的な侵入しか行うことはできなかった。 1296年には、ニブフのオフェンとブフリがアイヌに投稿して悪事をなしたのと記録が『元分類』巻41にある。 1297年(大徳元年)にも、5月にアイヌのウァインがニブフの船にのり大陸のチリマ岬に渡り乱をなすと、元軍は同年6月にアムール河下流域のヒチトルでアイヌ軍を破り、 同年7月には元軍がアムール川下流域のフリ川に攻め入ったアイヌを破っている[23]。 さらに、8月にはアイヌのブフスらが海を渡ってニヴフの打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴えが、ニヴフから元朝に対してなされている[24]。日本では鷲羽は、 アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch