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>>905
◆恐怖の独裁者・毛沢東
一方、この根拠地支配の基盤となったのは「恐怖」であった。毛沢東はこの「恐怖」の力を最大限に活用し、それを住民の心に強く焼き付けることにより、それを支配の後ろ盾としたのである。
以下の指摘は、後に反右派や大躍進や文化大革命で知られることになる「恐怖の独裁者・毛沢東」の素地を、早くもこの段階から顕わにする事実だといえる。
「毛沢東が井岡山へ来て以来、公開処刑が地元住民を集める大きな行事になった。毛沢東は人をじわじわと殺す方法をとくに好んだ。
……公開処刑を考え出したのは毛沢東ではないが、この恐ろしい伝統に人民を動員して大集会に仕立てたのは毛沢東であり、それによって多くの民衆が殺人を強制的に目撃させられることになった。
参加を強制され、その場から立ち去ることも許されず、人が苦しみ悶えながら残虐な方法で殺害される場面を見せられ、断末魔の絶叫を聞かされた人々の心には、恐怖が深く刻みつけられた」
革命とは「恐怖」のことだと毛沢東はいったというが、これが彼の基本的な統治作法となった。一体このどこが土地革命であり、農民解放なのだといいたくもなるが、これが建国史に特筆される革命根拠地の実態だったのだ。
毛沢東は「焼き畑式農業」に等しい略奪行為以外に、何一つ経済戦略というものをもたなかった、と著者は指摘する。
以下はかかる井岡山の惨憺たる実態を党中央に報告した党巡視員の言葉である。
「紅軍が来る前は……(この地区は)かなり平和で満足な暮らしぶりだった。……(しかし)紅軍が来て以来は、何もかも全て変わってしまった。
紅軍は収入をもっぱら富裕層からの略奪に頼っており……小ブルジョワ、裕福な小作農、小規模な行商まですべて階級の敵として扱われ、
大規模な破壊がおこなわれたあと建設や経済危機に何の配慮もなされなかったため、周辺地域は完全に破綻し、日に日に崩壊が進んでいる」
しかし、この革命根拠地の現実を逆に中国の歴史教科書は次のように記述するのである。
「井岡山の小さな火が、次第に発展して燎原(広野を焼き尽くす)の勢いになった」
毛沢東は二八年十一月、この井岡山を出て福建省、江西省へと向かう。しかし、この後で毛沢東の前に立ちはだかったのが、
紅軍内における反毛沢東の動きであった。余りの勝手きわまる無原則な毛沢東の行動ぶりに、朱徳ら紅軍幹部が一斉に反発を強め、毛沢東の排除を求めたのだ。
しかし、毛沢東は幸運だった。モスクワとその意を体する周恩来が毛沢東の異常ともいえる権力欲・残虐性にむしろ利用価値を認め、その要求を排除したからである。
かくて、毛沢東はモスクワと党中央のお墨付きを背景に「紅軍最大の安定地域」、すなわち江西省革命根拠地に自らを首班とする共産主義国家を樹立することになるのである。教科書は次のように書いている。
「革命闘争を推進するために、一九三一年冬、中華ソビエト第一回全国代表大会が江西省瑞金で開かれた。会議は中華ソビエト共和国臨時中央政府の成立を宣言し、
憲法大綱を制定し、瑞金を首都に定めた。毛沢東を臨時中央政府主席、朱徳を中央革命軍事委員会主席に選挙した」