【森友学園】安倍首相、森友学園を「素晴らしいと聞いた」から一転批判へ ★29at NEWSPLUS【森友学園】安倍首相、森友学園を「素晴らしいと聞いた」から一転批判へ ★29 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト600:名無しさん@1周年 17/03/06 20:35:23.68 nYQwGAY70.net A級戦犯で評判が悪いのは 板垣、松岡、東条だが… あと一人いないのが全てだな。 しかもこの三人はユダヤ人を助けていたし 601:名無しさん@1周年 17/03/06 20:35:29.20 mSr8VWTT0.net 赤坂飯店アンコンしたのに 支持率下がったのかよw 602:名無しさん@1周年 17/03/06 20:35:31.53 r3AY/ngF0.net >>476 昔は大規模な焼却炉無かったから、 積んである廃材を中心とした土砂混じりの ゴミを、北側の沼地だったとこに流して 埋めたんだろう。 でも、他の土地は埋めなくてもいい土地だった。 だから8億の減額の理屈は通らない。 603:名無しさん@1周年 17/03/06 20:35:33.91 /F/xvjGw0.net >>567 何故東郷は大日本帝国を滅亡させたか分かる記事。 東郷茂徳 (とうごうしげのり) 韓人の子孫として 1882年12月10日、東郷茂徳は鹿児島に生まれた。詳しく言えば、伊集院村苗代川の出身である。 ここは鹿児島ではあったが、異国の集落であった。三百年程も昔、豊臣秀吉が朝鮮遠征に兵を出した時、薩摩の島津義弘公が韓人の陶工数百名を連れて帰ってきた。その子孫が住み着いた村であったのだ。 茂徳も、子供の頃の姓は朴という韓国姓。富裕な陶器商人であった父が、困窮した武士からその株(武士となる権利)を買って、東郷の姓に変えたのである。 ここの陶工たちが製造する薩摩焼は、高い評価を受けており、薩摩藩では彼らの技術を高い水準に保つため、手厚く保護した。 藩内では尊敬され、一目置かれる存在であったのだ。誇り高き人々で、江戸時代まで、韓式の衣装をまとい、韓国語を話していた。 しかし、明治になって様相は一変した。近代化を推し進めた結果、近代化の遅れた中国や朝鮮を侮蔑する差別感情が生まれた。 鹿児島も例外ではない。かつては敬称であった苗代川出身という立場は、侮蔑の対象に成り下がったのである。 時に暴力を伴ったこの差別感情は、少年の心を傷つけた。同じ日本人なのに、なぜ殴られなければならないのか。 三百年前の出自のゆえに受ける差別。溢れ出る屈辱感に茂徳は耐えなければならなかった。それを忘れようとひたすら勉学に打ち込んだ。彼の成績は常に首席であったという。 差別の壁 東京帝大(現在の東大)に入学した東郷は、ドイツ文学科へ進んだ。いずれ小説家にでもなろうとした。受けてきた差別ゆえに、人生の意味を探求せずにはおれなかったのだ。 人生の進路を変える事件が起こる。在学中、肺結核を患い、療養生活を余儀なくされた時のことだ。彼は1年間大学を休学し、日光の中禅寺湖で療養生活を始めた。ふとしたことから一人の女学生と出会う。 名は美津、一流旅館の娘である。生まれて初めて東郷は、女性に恋心を抱いた。美津に会っていると、過去の苦い思い出も吹き飛び、病気療養の身であることも忘れてしまう。 生きる力が漲り溢れてくるのを感ずるのであった。 療養生活を終えた後も、美津との交際は順調に進み、結婚を約束する仲になっていた。全てが順風満帆、後は美津を迎えるだけである。彼は美津の両親に長文の手紙を書き、結婚を申し入れた。しかし3ヶ月経っても返事はなかった。 実は、美津の両親は興信所(身許などを秘密に調査する会社)を使って、東郷家の身許を調べ上げていた。 彼らは三百年前の先祖の血を問題にして、この結婚を阻止したのである。このことが東郷に与えた衝撃は大きかった。忘れかけていた少年時代の傷が生々しく蘇ってくる。 理不尽な差別の壁を前にして、立ちすくむばかりであった。 美津との破局は、東郷に一大決心をもたらした。差別の壁が厳然としてある以上、そこから逃げるわけにはいかない。 正真正銘の日本人になろう。それには命がけでこの国のために貢献するしかない。まず文学を捨てる決断をした。現実の世界で貢献するためである。そして当時日本で最難関とされた外交官試験に挑戦し、3度目にして合格した。 http://megalodon.jp/2016-0905-1458-33/ifsa.jp/index.php?togoshigenori http://ifsa.jp/index.php?togoshigenori 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch