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維新後、長州と薩摩の朝鮮系帰化人下級武士は本物の日本人の武士を北海道の極寒の中での強制労働で虐殺した。
西南戦争や萩の乱や佐賀の乱など薩長肥の武士の反乱は実態を知っていた日本人武士による帰化人下級武士に対しての反乱だったんだよ。
西郷は人質ね。
以下、北海道で死ぬまで働かされた8万9千人の日本人武士の話。
この時、同じように明治政府を去った江藤新平らが佐賀の乱(1874年明治7年)を起こし、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が相次ぎました。
そしてとうとう1877年(明治10年)西郷が立つ日がやってきました。これが西南戦争です。ほぼ九州全域を舞台とした8か月に及ぶ内戦は西郷の自害で幕を閉じました。
征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。
政府はこの状態を解決するため、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めました。
広大で肥沃な大地北海道、ロシアからの北の守りを進めるうえでも北海道開拓は重要な懸案事項でした。
北海道に集治監を設置し、廉価な労働力として囚人を使役させ、北海道の防衛と開拓が進み、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、
明治14年月形町に樺戸集治監、明治15年三笠市に空知集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、その分監として明治23年網走囚徒外役所が人口わすが631人の小さな漁村の網走に誕生しました。網走監獄120年の歴史のはじまりです。
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