17/02/10 16:49:53.90 L+qb25CQ0.net
>>7
「保守とは何か?」
と言う問いにちゃんと答えるのも難しいと思う。
と言うのは「古くからある風習、伝統、考え方を守ろうする考え」と言ってみても人間の歴史において、
常識など変わってきていたと思うし、そもそも文化風土か違う他の国は千差万別で、保守と言う考え方も千差万別存在してしまうことも同時に暗示してしまうものだと感じてしまうからだ。
そしてやはり、人類の歴史を考えた場合、やはり客観視してみると、急激な変化、革新は少ないと思うが、緩やかな変化は多分にありそうだ。
では本当に保守とはどういったことか?と言うことだろう。
人間が真に保守的な動物であるなら、人類はまだ洞窟で狩や猟の生活を続ける保守的な生き物である筈なのだ。
人間が真に保守的な動物であるとするなら、人間は進化しない、他の犬や魚、牛、豚と言いった生き物と同じで、死ぬまでずっと同じようなサイクルを続けライフスタイルを変えることはしないだろうと感じる。
つまりこれは、端的に人間が保守的でない動物かもしれないと暗示しているようにも思えるのだが、私はそもそもこの「保守」と言う単語、考え方、捉え方に問題が少しあったのではないのかと感じている。
それは何故か?と言うと、私は保守と言う言葉の意味を、単純で分かりやすく言う例えを最近思い付いたと感じているからだ。
それはどう言ったことかと言えば、「おでん」である。
おでん
冬になり、寒い季節になると温かいおでんが食べたくなるものだ。
特に味の染みた大根等は、絶品でこの料理でしか味わえない深みをかんじてしまう。個人的に。
元々関東発祥のこの料理が関西で食べられるようになったのは、最近だとも聞いたことがある。
まあ、確かに関西の人(特に友人知人はいない)はこんな味の濃いものを食べるのは鈍感な感性の持ち主で見下げた奴と揶揄するのだろうが、まあ、それも良いのだと私は思う。
何故か?と言えば、関西は元々京都に近いが京都料理、この京都料理の思想そのものが私は保守そのものだと位置づけているからだ。
そして、京都料理の根本、存在意義其の物が「技術の継承」にあると私は捉えている。
良く某グルメ漫画などでは、海原氏が「素材本来の味を生かし、殺すことなく表現するのが本質」
と言はれるが、その息子の山岡氏が言う事を私は大雑把にこう捉えている。
「勿論、一つ一つの素材を生かすことは大事であるが、それにとらわれてはいけない。素材と先端技術、異国間での食材同士の交流により、複雑になりうま味もより一層深みを増す」
と言うような事を山岡氏は海原氏に反発し、言おうとするのであるが、海原氏にとってはそれは季節感の欠如、
郷土への愛の欠如と言われいつも大体「邪道」の烙印を押されてしまい、料理対決でも山岡氏は敗走に敗走を重ねてしまう。
それが良いか、悪いのかは置いておいて、確かに海原氏の言う通り素材の味を絶対殺さない、元あった物を保守するのもとても大切だ。
素材の味を絶対に殺さず、薄味で表現するには物凄いテクニック、技術と微妙な薄味を選別出来る感性、研ぎ澄まされた感覚が必要な筈だ。
海原氏の言っている、「人は技術面でも、感覚、感性の面でも研ぎ澄まされていなければならない」と言う事は最もであり、アスリートなら尚更だろう。
正にこれこそが「保守」の原点であり、「研ぎ澄まされた技術、感性を腐らせない」と言う事であり、保守とはつまり思想の保守にあらず、「人間の質の保守」と言うところであろう。
じゃあ、冒頭に出てきたきりの「おでん」とは何か?と言う事だが。
おでんと言うのは、基本カツオ、昆布だしのシンプルな薄味のだし汁で煮込むが、同時に煮込むつみれ、大根、はんぺん、
最近は牛筋からは魚介類や家畜類のうま味も出て、がんもどきからは、大豆のうま味も出て時間が経つにつれてそれらが合わさり、複合的に深みのある味わいを創り出す。
またそれらのうま味をちゃんと表現するためには京都料理などで培われ、残された研ぎ澄まされた技術、感覚が必要な訳だ。
だから、「おでんが美味い」と言う事は世の中の絶対不変の真実であり、改竄やねつ造のできない顕然たる事実であり、それは認めねばなるまい。
しかし勿論、我々の社会もそうありたいものであるが、おでんの中にいきなりキムチを入れてしまったら、味が余りに濃すぎておでんではなくて、それはキムチ鍋になってしまう事もまた顕然たる事実なのだ。
おでんと言う定義において、その質を落としかねないキムチ鍋はどうかと言うことだ。