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●オランダ300年の統治
①強制栽培制度=19世紀、耕地面積の5分の1はコーヒー茶など
オランダ向けの生産物を強制的に栽培させた。
このため、多くの村が崩壊し、食料自給体制は解体、
餓死者が続出し平均寿命は35歳にまで低下した。
が、オランダが得た利益は実に国家予算の3分の1を占めた。
例えば、ジャワ・マドゥラ地方の人口の半分に当たる400万人が
強制栽培に従事させられる。稲作の減少による米価の高騰を招き、
1850年には強制栽培に凶作が重なり飢饉が起こり、
ドゥマックの村は人口が33万6000人から12万に
ゴロボガン村では人口8万9500人が9000人に減少。
②天然資源の開発のため、インド人、中国人を大量に苦人として
インドネシアに移住させ、この移民民族を経済・流通機構に利用したため、
彼らがインドネシア人の上に立ち、インドネシア人を支配する階層が
形成され、後の人種対立の原因を作った。
③オランダは大がかりにインドネシア人との混血児を作り、
それを間接統治の官吏とした。行政官は混血児と華僑に任せ、
インドネシア人の政治参加、行政参加はほとんど禁止した。
④オランダ政府は重税を課した上、
華僑が高利貸となり200%の金利にインドネシア人は苦しみぬいた。
⑤分割統治のため、民族間の反目を煽り、部族抗争を激化させた。
東チモールは、ポ/レトガルの植民地で住民がキリスト教徒となったため、
イスラム教のインドネシア人との対立が生まれた。
⑥愚民政策をとり、教育は基本的に禁止。20世紀になって、
世界の批判を受けて初等教育(3年間)だけは実施したが、
学校に通えたのは僅か数%。さらに上級学校へ進学する者に対しては、
オランダ語を強制した。大学卒業のインドネシア人は年に10人程度。
⑦住民に武力反乱を起こさせないように青年の体育、団体訓練は禁止し、
数人の行列行進さえも禁止した。
⑧住民の集会は一切禁止し独立運動家はすべてニューギ
ニアなどの島に流刑、または死刑にした。
⑨国旗掲揚、国歌斉唱はもちろん禁止(注、当時は正式、
には国旗・国歌は決定していないが民族旗・歌があった)
⑩インドネシア人のほとんどが信仰しているイスラム教
を弾圧し、キリスト教を広めた