16/10/13 00:24:45.84 0ylZ/Xdy0.net
>>1
なぜ政府の権限に対する制限の弱さについて心配するのですか?特に不信がリベラルのユートピアに忍び込み始める
1960年代半ばの前の彼らの全盛においてアメリカのリベラルによりしばしば使用されたフレーズは
"民主主義国では、我々は政府ではありませんか?"である。
そのフレーズ"我々は政府である"において、便利な集合的な表現"我々"は政治生命のありのままの搾取的な現実を覆い隠す
イデオロギー的な誤魔化しを可能にした。
もし我々が本当に政府であるならば、その時は政府が個人に行う全ての事は正当であり専制ではないだけでなく、
それはまた関係している個人の部分の側の"自由意志に基づいている"。
もし政府が別の集団の為にある集団に課税する事により払われなければならない巨大な公的債務を背負っているならば、
この負担の現実は"我々は我々自身にそれを借りている"と無邪気に言う事により便利に曖昧にされる。
(しかし誰が"我々"であり誰が"我々自身"なのか?)
もし政府がある人を徴兵したなら、或いは反体制の意見の為に刑務所に彼を入れるなら、
その時は彼は"自らそれに入る"だけである、そしてそれ故にこの推論の下に何も誤りは生じていない、
そしてナチス政府により殺されたユダヤ人は殺されたのではない、彼らは"自殺を犯した"に違いない、
彼らは民主的に選ばれた政府なのだから、そしてそれ故に政府が彼らに行った全ての事は彼らの側の自由意志に基づいている。
しかし国家を大衆の情け深い自由意思に基づいた代理人としてだけ見る政府の支持者にとって
このような不自然な歪みから抜け出る方法は存在しない。
従って、"我々"は政府ではない、政府は"我々"ではないと我々は結論しなければならない。
政府は正確な意味では人々の多数派を"代表"していない、しかし例え多数派を代表していたとしても、
例えば人々の90%がその他の10%を殺害するか奴隷化する事を決定したとしても、これはまだ殺人と奴隷制である、
そして抑圧された少数派の側の自由意思に基づいた自殺や服従ではない。
犯罪は犯罪である、権利に対する攻撃は侵略である、どの位多くの市民がその抑圧に同意しているかは問題ではない。
多数派に神聖な物は何も存在しない、リンチを行う群衆もそれ自身の領域では多数派である。
マレー・ロスバード、For a New Liberty.
マレー・ロスバードは20世紀のアメリカ合衆国における代表的な自然法哲学者、経済学者、歴史学者である。
彼はリバタリアン運動の中心的な指導者の一人であり、20世紀で最も偉大なリバタリアン理論家、ミスター・リバタリアンとも呼ばれる。
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