【社会】宗教学研究者「戦後70年以上過ぎ、実証的に“戦争と仏教”を論じる時期が来た」 仏教の南方進出 「文化工作、国策に加担」at NEWSPLUS
【社会】宗教学研究者「戦後70年以上過ぎ、実証的に“戦争と仏教”を論じる時期が来た」 仏教の南方進出 「文化工作、国策に加担」 - 暇つぶし2ch2:ニカワ ★
16/09/09 01:52:16.08 CAP_USER9.net
カンボジアのアンコールワットを見学する日本兵=1941年8月撮影
URLリンク(cdn.mainichi.jp)
■閉ざされた史実に光
 東南アジア大陸部は仏教徒が多数を占める。タイやラオス、ミャンマー、カンボジアで上座仏教、ベトナムでは大乗仏教が広く信仰されている。島しょ部ではイスラム教が盛んだが、同時に華人社会が形成され、仏教や道教の信仰も根強い。
 京都大地域研究統合情報センターの林行夫教授(文化人類学)によると、東南アジアへの仏教者の長期滞在は明治時代に記録が残る。主な目的はパーリ語仏典の研究。タイへ渡った真宗大谷派の生田得能(いくたとくのう)や浄土宗の概旭乗(おおむねきょくじょう)らが知られる。
 「大正〜昭和初め、一時的にその数は減りますが、続いて日本が占領を円滑に進めるために派遣された。だが、この宣撫(せんぶ)工作はほとんど効果がなかったのではないか」と林教授は指摘する。そして大澤さんの仕事について、「日本の仏教界が触れてほしくなかったところを、制度史的、組織論的に厳密にトレースしている。戦争に加担する中で、仏教を軸にアジアの連帯をどう構想したかが分かる。戦争の時代に沸き立つように起こった動きは、近未来の日本の縮図になるかもしれない」と述べた。
 ■人物略歴
おおさわ・こうじ
 1976年生まれ。駒沢大仏教学部卒。大正大大学院宗教学専攻博士課程修了。2009年から文化庁宗務課専門職。東洋大文学部非常勤講師。編著に『仏教をめぐる日本と東南アジア地域』(勉誠出版)。東京都在住。
URLリンク(mainichi.jp)

3:名無しさん@1周年
16/09/09 01:53:08.66 O2+xQAfT0.net
ぶつぞう

4:名無しさん@1周年
16/09/09 01:53:24.26 hVb9Qiq+0.net
>>1
お前日本会議に喧嘩売るつもりか、消されるぞ
日本会議の目的が日本を明治に戻すことなのに何を言ってるんだ、命惜しくないのか

5:名無しさん@1周年
16/09/09 01:55:28.36 Fm1NtmtX0.net
【話題】田中角栄首相が「日本の朝鮮半島統治は、韓国民には有益だった」と発言したが、国会でもまったく異論がでなかった [09/07] 2ch.net
元スレ スレリンク(news4plus板)
「いま誇るべき日本人の精神」(ベスト新書)を上梓。日本人は戦後いかに変わり、そして大事なものを失ってしまったのか。保守派の重鎮である加瀬英明氏から話を聞いた。
 私には靖国神社を疎む者を、理解できない。国を愛して生命を捧げた英霊を、どうして愛することができないのだろうか。
  二〇一五(平成二十七)年の前半に、安倍首相がうっかり口を滑らして、自衛隊を「軍」といったために、国会で野党から叩かれた。
 日本国民なら、誰でも自衛隊が限りなく軍に近いものだと、思っていよう。
だが、吉田茂首相が日本が独立回復をして三ヶ月後の一九五二(昭和二十七)年七月三十一日に、「保安隊は新国軍の土台となる任務を持つ」と述べた時には、国会で問題にならなかった。
吉田首相はその翌年の十一月三日に、衆院予算委員会において、「自衛隊は戦力なき軍隊だ」と発言したが、野党が揚げ足をとることがなかった。
 安倍首相が〃軍発言〃を行ったあとに、与党の女性議員が「八紘一宇」といったところ、国会で野党から叩かれた。
「八紘一宇」という言葉は、『日本書紀』(七二〇年)にでてくるから、『日本書紀』がけしからんというのだろうか。「八紘一宇」は、世界が一つの家族となって、睦み合おう、という意味だ。
どうして、六十二年前に首相が、保安隊や、自衛隊を軍だといって、問題にならなかったのに、いまになって、非難されるのだろうか。
アジア・アフリカ会議は一九五五(昭和三十)年に、インドネシアのバンドンで、二十九ヶ国のアジア・アフリカ諸国の指導者が集って開催された、第二次大戦後、最初の有色人種のサミットだった。日本も参加している。
二〇一五年四月に、インドネシアでアジア・アフリカ(バンドン)会議六十周年を記念して、首脳会談が催された。安倍首相が参加して、演説のなかで「先の大戦の深い反省」と、述べた。
 その十年前に、小泉首相がバンドン会議の五十周年を記念して催された首脳会議で、「痛烈なる反省と、心からのお詫び」と、演説している。
 だが、六十年前の第一回バンドン会議の翌年の一九五六(昭和三十一)年三月八日に、鳩山内閣の重光葵外相が参院予算委員会で、
「太平洋戦争によって、日本は東南アジア諸国の独立に貢献した」と述べたが、野党も、中国、韓国も、非難しなかった。
 このところ、日本は中国や、韓国の顔色を窺って、戦戦兢兢としている。
一九七四(昭和四十九)年一月二十四日に、田中角栄首相が「日本の朝鮮半島統治は、韓国民には有益だった」と発言した。だが、国会でも、国内でも、  まったく異論がでなかった。
 私はこのような例を、いくらでもあげることができる。
 きっと、日本国民が物質的な繁栄によって、刹那的になったために、記憶を失うようになっているのだろう。

6:名無しさん@1周年
16/09/09 01:55:43.02 DVW+Pq4z0.net
大谷光瑞だっけ、あいつ探険家なのか坊さんなのかどうにかしろ

7:名無しさん@1周年
16/09/09 01:55:55.01 32xm5d8E0.net
>>4
石井さんや中川さんや長谷川さんのように
アメリカに逆らったわけでもないのになんで殺されるの?

8:名無しさん@1周年
16/09/09 01:58:35.90 GpWszf+H0.net
おフランス制の教えざんす

9:名無しさん@1周年
16/09/09 01:58:49.31 Fm1NtmtX0.net
■1.「日本は自由であるべきである」■
 1951(昭和26)年9月6日午前11時、スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナの演説が始まった。舞台は米国サンフランシスコ講和会議である。
 51カ国からの代表が集まって、日本との講和条約を結び、日本の独立を認めるかどうかを議論する場であった。米国が中心となって、
日本の独立を認める講和条約案がまとめられていたが、ソ連は日本の主権を制限する対案を提出し、さらに中国共産党の出席を求めたりして、審議引き延ばしを図っていた。
 ジャヤワルダナ代表は、自らはスリランカ代表ではあるが、「日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼らの感情をも述べうる」として、こう語った。
アジアの諸国、セイロン(JOG注:スリランカ)、インド及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理念は日本は自由であるべきであるということであります。
「自由であるべき」とは、日本の占領を解いて、独立を回復させるべき、という意味である。

■2.「アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のため」■
 講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその理由を述べた。
アジアの諸国民が日本は自由でなければならないということに関心をもっているのは何故でありましょうか。それは日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、
アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本の保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。
私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者の
あるものがかくすることにより彼等の愛する々が解放されるかも知れないという希望によって日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります。
「共栄のスローガン」とは、日本が大戦中に唱えた「大東亜共栄圏」のことであり、実際に欧米諸国の植民地支配からの独立を目指す国々の代表が東京に集まって、「大東亜会議」が開催されている。
 さらにビルマ、インド、インドネシアでは、日本が支援して設立された独立軍が、これらの国々の独立戦争に大きな役割を果たした。
 ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、と続け、その理由として、仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」を引いた。
 ジャヤワルダナの演説が終わると、賞賛の声の嵐で会場の窓のガラスが割れるほどであったと『サンフランシスコ・ニュース』は報じている。
また『サンフランシスコ・エグザミナー』紙は「褐色のハンサムな外交官が、セイロン島よりやって来て、世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。
 この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ国が講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を回復したのだった。

10:名無しさん@1周年
16/09/09 01:59:25.08 fRNCt2E80.net
先に戦争とイスラム教を語ってはどうかと

11:名無しさん@1周年
16/09/09 01:59:26.42 Fm1NtmtX0.net
■3.西洋の植民地支配400年■
 おそらく当時の日本国民は、遠く離れたスリランカの一外交官がなぜにこれほどまで日本を擁護してくれるのか、いぶかしく思ったろう。しかし、スリランカの歴史を辿ってみれば、その理由も見えてくる。
スリランカとは「光り輝く島」という意味で、その美しい豊かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。北海道の8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。
紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作り、紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教国として信仰を守ってきた。
しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、そのため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。1505年にポルトガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した。
1658年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配を続けた。さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を支配下においた。
イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、米まで輸入しなければならない状態にしてしまった。独立を求めて大規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。
イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優遇し、彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさせた。この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となった。
同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。シンハラ人のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。
■4.「アジアを救うことこそ日本の役割」■
イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれるアナガーリカ・ダルマパーラであった。
敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。しかし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者)・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗ったのだった。
ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。
 ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902)年に3回目の来日を果たした。3度目の来日の2か月前、
日英同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。
 その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを打ち破った。日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。
ダルマパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいていないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに死の淵から生還したのだ」と語っている。

12:名無しさん@1周年
16/09/09 02:00:08.38 Fm1NtmtX0.net
■5.「次に生まれるときには日本に生まれたい」■
 3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダルマパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせないと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。
 大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、満洲と朝鮮も訪れた。日本はこれらの地に惜しみない資本投下を行って、急速に近代化を進めていた。
ダルマパーラは「日本が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがインドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。
 ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の民族主義運動が高まっていった。
イギリスの植民地当局はこれを警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年間もダルマパーラを拘束した。
弟も捕らえられ、半年後に獄死した。それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。
「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していたという。
■6.皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年■
 1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカを訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨーロッパに向かう途上であった。
 皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。
 ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。
 外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほとんど消え去りそうになっていました。
 このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。
先の80年の間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていたのです。
 西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打ち負かしていました。
 陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦を一目見ようと港に行ったものでした。
 当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。
自分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くという出来事は、
「自分たちもいつかは独立を」という希望をスリランカの人々に抱かせたに違いない。

13:名無しさん@1周年
16/09/09 02:00:38.35 kRH0G9ru0.net
仏教は哲学、宗教ではない。
仏陀以降の俗物が宗教にした。

14:名無しさん@1周年
16/09/09 02:00:49.62 Fm1NtmtX0.net
■7.「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」■
 1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のように語っている。
 1941年に日本が真珠湾を攻撃し、第2次大戦に参戦した時には、スリランカ人は日本に対してある種の同情を寄せていました。・・・
 1942年の初め、強力な日本海軍はインド洋上の敵艦をどんどんと破壊していき、スリランカ島に向かっていきました。
しかし、その時にスリランカに停泊していたイギリス軍艦の多くは第一次世界大戦当時に造られた古いものばかりでした。
 4月、日本海軍の航空隊はスリランカの都市を空襲し、それらの軍艦に攻撃をしかけてきました。この航空隊は真珠湾攻撃に参加した後にやって来た隊でした。
日本軍の爆撃の命中率は世界で最も正確だったと言われています。
 この空襲の際に、3人が乗った日本軍の攻撃機1機が墜落した。コロンボのカテッナ市営墓地には、墜落死した日本兵の墓が造られている。
 日本軍はシンガポールを占領した後、投降したインド兵を集めて、インドの独立を目指すインド国民軍を組織させた。その中にはスリランカ人の部隊もあった。
 インド国民軍はシンガポールからインドやスリランカに向かって「ラジオ昭南(シンガポール)と呼ばれるラジオ放送を行った。
 当時12歳だったデヴェンドラ氏は、このラジオ放送をよく聞いていた。
「こちらはラジオ昭南、インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」という言葉で始まり、「ワン・デイ・マータラ」という、今でもインドでよく知られているインド国民軍の歌を流した。
 アメリカの情報機関は、このようなインド向けの放送が、インド人の心理に与えた影響は非常に大きかったとしている。
■8.「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」■
 日本が敗戦した日は「Victory over Japan Day(対日勝利の日)」と呼ばれ、大きな都市では記念式典が開かれた。デヴェンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、イギリス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行った。
 この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。しかし、私達は日本によって得られたものがあります。それは愛国心という心でした。それは、日本によって全てのアジアの国々にもたらされたのでした。
 戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、スリランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなければなりません。
「対日勝利の日」に、英国側の前で、日本に感謝する演説を行うとは、まことに大胆な言動である。それだけ強い気持ちが籠もっていたのだろう。
 1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。日本が設立を支援したインド国民軍の指導者たちをイギリスが「反逆者」として軍事裁判にかけようとした事に対して、
インド全土に暴動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独立を勝ち得た。それとともに、イギリスはスリランカからも撤退したのである。
 昭和天皇のお召し艦を一目見ようと港に駆けつけた少年ジャヤワルダナが、独立政府の要職についていた。そしてサンフランシスコ講和会議で日本を擁護する演説をすることになる。
 日本は明治以降、スリランカの人々の独立への希望に灯を点してきたのだが、今度はそのスリランカが日本の独立を助けてくれたのである。

15:7777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777
16/09/09 02:02:42.47 3h8FcYMz0.net BE:452334285-BRZ(10015)
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かのシルクロードは、かって有力なる仏教圏であった。
仏教は、シルクロードを経て、中国へ伝播した。
玄奘三蔵がインドへ行ったのも、シルクロードを経て、であった。
そのシルクロードたるや、いまや完全にイスラム圏になって仏教は見る影もなし。
その他、インドでも仏教圏がイスラム圏に化したものは多い。
が、イスラム圏が仏教圏に化した例は一つもない。
その理由は何か。仏教が内包する尖鋭な矛盾によるものと思われる。
釈迦は、人生の無価値を体験した者、解脱にあこがれる者は、すぐにその場で、
出家して仏行に専念することを勧めている。なにしろ、生死事大、無常迅速(人の世はうつろいやすく、
死は早く来る)ではないか。解脱しないままで、突然、頓死したらどうなる。
そうはならないように、即座に出家せよ。釈迦は、そのように奨める。
仏教の考え方からすれば、まさに、そのとおりではある。
が、釈迦の勧奨は、重大な社会問題を生む。兵役の義務を棄てて出家したらどうなる。
国家は滅亡するかもしれないではないか。実際、釈迦の祖国は?薩羅(コーサラ)国に攻め滅ぼされた。
納税義務を棄てて出家する者をどうするか、釈迦は少しもこの問題に言及していない。
これ、国民経済における重大問題である。
こんな大せつなことに、釈迦は気づかなかったのか。これぞまさに、仏教の思想的欠陥事項ではないのか。
仏教は、天下を顧(かえり)みないことであるが、無為徒食(むいとしょく)を教えるとして
経済効果をも問題視している。
この欠陥事項のゆえに、いかに資金が蓄積されようとも、いかに技術が進歩しようとも。
あるいは、いかに商業活動が活発化しようとも、仏教思想を背景にして、近代資本主義が発生し、
存立することはあり得ないであろう。人生の煩悶(はんもん)やみがたく、
納税の義務を棄てて出家する。これすら、その人数があまりにも多いときには経済的大問題となる。
後になると、納税したくないから出家する者が激増するようになってきた。
こうなると、国民経済はたいへん。仏教が盛んになるにつれ、そのような人びとは激増した。
仏教が、はじめて中国に伝えられてきたとき、中国人は、どこに仏教の効用をもとめたのであったか。
その超能力であった。巫祝(ふしゅく=幸福をもたらす超能力)としてであった。
仏陀は攘災招福、不老長寿の霊力を有する神として信仰の対象とされたのであった。
伝道師として来た西域沙門(しゃもん)は巫祝の役割をもつ神仙的修行者として尊敬されたのであって、
仏教はどこまでも現世的、功利的な道教的信仰の形において後漢の社会に受容されたのであった。

16:名無しさん@1周年
16/09/09 02:03:36.47 NpsdajI70.net
法華経すばらしいと思ってるのは
いまや日本だけ
捏造経典の可能性高いのに

17:名無しさん@1周年
16/09/09 02:06:45.65 bg2gJl0E0.net
莞爾スレになってるかと思ったらなってなかったw
もうこのサイト終わってんな

18:名無しさん@1周年
16/09/09 02:07:52.73 tfLw99DN0.net
植民地侵略と宣教師をまずは語ろうか?
スパイ活動や侵略手引してたキリスト教はどう思う?

19:名無しさん@1周年
16/09/09 02:08:44.20 rKZidh+l0.net
戦死は菩薩の行とか言ってたからねw
仏教界が日本の戦争で重要な役割を果たしたのは事実だわ。
なのになぜか戦後は仏教は平和を愛するみたいなイメージ作り上げた。
でもオウム事件の時の仏教界の対応みれば結局なにも変わってなかっ
たんだよ。仏教以外も例えば日本基督教団のようなキリスト教も同じ。
こいつらは共通して現在でも東アジア共同体=大東亜共栄圏を夢見て
る馬鹿どもってこと。何も反省してない。もう特亜と組んで反米にシフト
するのはまっぴら御免だわ。死にたくねえもんw

20:名無しさん@1周年
16/09/09 02:18:14.44 Fm1NtmtX0.net
■アジア独立のメッカは靖国神社―イドリスノ特派員のことば

昨年の八月十五日には、靖国神社に二十万五千人の人々が参拝した。その時例年のように境内で、大規模な慰霊集会が開催された。
何人かの登壇者の中で、世界イスラム連盟東京特派員のイドリスノ・マジッド師の発言が忘れらない。彼は言う。
「大東亜戦争によって、アジア諸国はすべて独立した。命をかけて独立に献身した人は誰か。言わずと知れた靖国の神々である。靖国神社は我々アジア人にとって独立のメッカである。我々は毎日五回ずつ、靖国神社に向かって祈りを捧げなければならない」
メッカは他にもある。ビルマ独立のメッカは、静岡県浜松
鈴木敬司大佐は開戦前、ビルマから、オンサン氏やラミヤン氏を自分の郷里・浜松に招いて、独立の秘策を練った。
まず三十人志士を養成し、開戦と同時に彼らを先頭にして、ビルマ国内に進撃することで独立の波を一挙に高める。この戦略は見事に成功し、いま浜松の大草山頂に記念碑が建っている。

それではフィリピン独立のメッカはどこか?
愛知県の三ヶ根山には比島観音がある。いやフィリピン人に聞けば、「それは特攻隊発進基地があったマバラカットだ。そこには銅像と記念碑もある」と答えるかもしれない。

■インド独立と日本
 インド国民は日本を称讃して止まない。靖国神社の資料にはこうある。
 P.N.レキ最高裁弁護士「太陽の光がこの地上を照すかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない」
 S.S.ヤダバ元INA大尉(INA全国在郷軍人会代表)「われわれINA将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友として、戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して
もっとも深甚なる敬意を表わします。インド国民は大義に生命を捧げた
勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。
我々はこの勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます」
 実際、先帝(昭和天皇)陛下崩御に際し、インドでは政府関係の庁舎や国会など、
いたるところに3日~1週間にわたり半旗が掲げられ、大統領の呼び掛けで国民は喪に服している。

21:名無しさん@1周年
16/09/09 02:18:15.77 ttKkFgAC0.net
日本国内でのキリスト教系勢力の拡大を目論む海外の団体から
寄附とか支援してもらえそうな研究だな

22:名無しさん@1周年
16/09/09 02:18:57.76 sGAw4JAX0.net
偽ユダヤは必要悪

23:名無しさん@1周年
16/09/09 02:19:24.74 bg2gJl0E0.net
第二次大戦においてカトリックは味方陣営、プロテスタントは敵陣営って構図もあるからな

24:名無しさん@1周年
16/09/09 02:20:02.53 86p48gL/0.net
宗教と戦争の関わりはヨーロッパっでは常識なのに
なんで日本の仏教は、日本でそれがあったからどうのこうのって言うんだろう
お花畑なんだろうな

25:名無しさん@1周年
16/09/09 02:22:52.29 Fm1NtmtX0.net
■ハワイと日本の繋がり GHQに抹殺された歴史
■ハワイの先住民族はポリネシア系に属し日本と同じモンゴロイドで、宗教も多神教であったそうだ。
人々が島々で平和な暮らしをしていたのだが、1778年にイギリス人の探検家ジェームス・クックに発見され、それから欧米人との接触により急速に変貌していった。
1840年には米国人宣教師主導による立憲君主体制が樹立され、以降欧米人(大部分がアメリカ人)がハオレ(白人)官僚として、ハワイ政府の中枢を独占し、ハワイ王朝の生殺与奪権を掌握するに至ったという。
1848年には土地法が制定され、1850年に外国人による土地の私有が認められると、対外債務を抱えていたハワイ政府が.土地の売却で負債を補ったり、宣教師が土地所有観念のない島民から
土地を寄進させるなどして、国王領以外のハワイ諸島土地の多くがハオレの所有地となり、また議会もハオレが多数を占めていたという。
一方ハワイでは白人がもたらした病気の影響などにより、人口が百年間に30万人が5万人に激減していた。
このままでは国がアメリカに併呑されることを怖れた7代目の国王カラカウアが、1881年(明治14年)に国際親善訪問の旅に出た。この旅行で国王が一番感動したのが、明治維新からまだ14年しかたっていない日本だったそうだ。
国王は明治14年の3月に横浜に上陸し、翌日横浜駅から特別列車で新橋駅に着き、そこから赤坂離宮に向かうのだが、横浜港も鉄道も日本人が仕切っていることに驚いたという。
例えばインドでは、鉄道輸送から徴税、税関業務までが英国が独占し、インド綿には英国で高額な輸入税がかけられ、一方英国綿製品は関税なしでインドに輸入されて、インドの綿工業は全滅した。
イランでは、郵政や電信電話は英国、カスピ海航路はロシア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア…という具合で、自国民が重要施設を仕切っている国は欧米以外の国ではほとんどなかったのが現実だった。
■カラカウア王は明治天皇に対して、西洋諸国の侵略に対して東洋諸国が団結する必要がある。ひいては明治天皇には「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」になって欲しいと嘆願したというのだ。
さらにカラカウア王は、この時に日本人の移民を要請され、さらに姪であるカイウラニ王女に皇族山階宮定麿王(のちの東伏見宮依仁親王)を迎えて国王の後継者としたいとの提案もあったという。(後に丁重に断っている)
カラカウア王が世界一周旅行から帰国したのちに取り組んだのは、米国宣教師が否定した神話・伝説の復活であり、ハワイ正史の編纂事業だった。
また宣教師によって禁止されていたフラダンス*を復活させ、自らもハワイ国家をはじめたくさんの民族音楽を作詞作曲したという。
*フラは神を意味し、フラダンスは神にささげる神聖な舞踏で、男の踊りであった。
続く

26:名無しさん@1周年
16/09/09 02:23:31.72 Fm1NtmtX0.net
続き
■こうした動きが、米国を刺戟する。
同じ年の1881年(明治14年)12月に米国国務長官ブレーンが、ハワイ公司にあてて次のような訓令を発信していることが、戦後GHQに焚書処分された吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』という本に紹介されている。
明治17年(1885)には946名を送ったのを皮切りに、日本人移民は続々とハワイに渡航し、20世紀初頭にはハワイ人口の4割を日本人が占めるようになったという。
アメリカは反撃に転じ、1887年に、王権の制限・弱体化を目的とした新憲法を米国側で起草し、ハオレ(白人)の私設部隊である「ホノルル・ライフル」を決起させ、武力で威嚇してカラカウア王に迫り強制的に調印させた。
この憲法は別名「ベイオネット(銃剣)憲法」とも呼ばれているそうだが、この内容がどんなにひどいかは読めばすぐにわかる。
「ハワイ國の臣民にして年齢二十一歳に達し、ハワイ語・英語若(もし)くは他のヨーロッパ諸国語を讀み、書き、算數を會得し、少なくも三ケ年間國内に居住し、竝(ならび)に五〇〇ドル以上の財産を國内に有し、
或は一ケ年少なくも二五〇ドルの所得を有するハワイ・アリカ若しくはヨーロッパ人種たる男子にあらざれば代議士に選挙せらるることを得ず(第六一條)」と、これでは貧しいハワイ人やアジアからの移民には被選挙権がない。
選挙権についてはこう書かれている。
「ハワイ國に居住するハワイ・アメリカ若(もし)くはヨーロツパ人種の男子にして國法遵守を宣言し、國税を納め、年齢二十一歳に達し、選擧日に際して1ヶ年國内に居住し、
ハワイ語・英語若くは他のヨーロッパ諸國語を讀み、書き、法律の規定に従つて選擧人名簿にその氏名を登録せられた者は、代議士を選擧する權利を有す(第六二條)」
先程紹介した吉森實行氏の著書『ハワイを繞る日米関係史』にはこうコメントされている。
選挙権が与えられる人種のなかに日本人が入っていないということは、帰化してハワイ国籍を取得していても日本人移民には選挙権を与えられなかったということである。
この憲法の問題点は選挙権・被選挙権だけではない。国王の閣僚罷免権が剥奪されるなど、国王の国政の関与を一切否定する内容が書かれていたようだ。
国王の世界一周旅行に随行したアメリカ人のアームストロング自身が、もし日本がカラカウア王の提案を受け入れていたとすれば、ハワイは日本のものとなっていたと書いている。

アメリカにより憲法を押し付けられ、国王家の弱体化を仕掛けられた国である点については、わが国はハワイ王国とよく似ている。
ハワイ王国は外国人に選挙権を与えることによって滅んだのであるが、なんとなくわが国はその方向に進んではいないか。
この頃にハワイ王国で起こったことを日本人はもっと知るべきだと思う。

27:名無しさん@1周年
16/09/09 02:37:03.27 um+0YSTY0.net
僧兵を復活させて宗教を弾圧する政党とか邪教なんかをぶち殺させよう!

28:名無しさん@1周年
16/09/09 02:38:28.89 tfLw99DN0.net
>>27
一向一揆を復活させよう。

29:名無しさん@1周年
16/09/09 02:39:31.97 bg2gJl0E0.net
戦前に明確に日本人をターゲットにして日本人がアメリカで帰化できない法律が制定されているのは事実だ
そういった差別問題が戦争の背景にある
だがアメリカというのはつまり、イギリスにおける満州のような国家だ
それと土着民の国家日本とを同一視していいものだろうか
民族国家と移民国家を同じように扱っていいのか?

30:名無しさん@1周年
16/09/09 02:41:36.83 tfLw99DN0.net
さて、第一次世界大戦後のパリ講和の際に日本が人種差別撤廃条約を訴えたのに拒否したアメリカとイギリスに話を聞いてみましょう!

31:名無しさん@1周年
16/09/09 02:46:56.18 bg2gJl0E0.net
支配する立場になったつもりで考えてみれば宗教の掌握は必須事項だ
考えるまでもない
そういうツールとして日本の仏教は洗練されている
だが戦時中の仏教ってのは一部のカルトの声が大きかったのも事実なんだろうな
浄土真宗系は本家も分家もカルト教団だわなw

32:名無しさん@1周年
16/09/09 04:50:32.61 5ogXp7lp0.net
宗教を勘違いしてる人がいる
特に宗教と宗教団体をごっちゃにしている
まんが日本昔話ってあるが、あれのほうがよっぽど仏教だよ
教訓を学ぶ、教訓を見直してみる
学校で教えてくれないことがたくさんある

33:名無しさん@1周年
16/09/09 05:29:06.45 f2UspBU90.net
あらゆる宗教はいつの時代でも侵略と統治の洗脳に利用されてきた


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