16/07/29 04:30:46.57 rhJVkp+20.net
後藤田「公明党とはそれぞれの時代につながりがあります。
私が警察庁の警邏(けいら)交通課長のときに、公安条例を作らなければならなかった。
それで、僕のところで公安条例の見本を作った。
それを全国警察に流して、知事を説き伏せて各県毎に作れ、と言ったんです。
問題は東京だ。
東京では公明党がウンと言わないと通らないんだ。
自民党が過半数に足りないから。
確か五十名かそこらしかいないわけですからね。
そこで警視庁に話をして、警視庁の総務部長に公明党対策をやってもらった。
僕も一緒にやりましたから、公明党との付き合いが始まり、
学会との付き合いが始まったということです。
だから、知事選挙なんかになると私は公明党と一緒ですよ。
一緒に選挙をやる。
公明党は、多くの県で与党寄りですね。
私が警察庁の長官の時に、佐藤内閣当時で、保利 (茂) 官房長官からお話があって、
僕は池田大作さんに会って、午後の一時から四時ごろまで話をしたこともあるんです。
担当の課長と一緒だったけれど、三人で話をした。
そうしたら、大変な慇懃 (いんぎん) 丁重な人だった。
最後に僕が言った言葉を今でも覚えている。
池田さんね、あなたの話はずいぶん長時間お伺いしてよくわかったんだけれども、
一つだけお聞きします、と言ったら、何でしょうか、と言う。
あなたの改革というのは、体制内の改革なんですか、それとも外へ出ての改革なんですか、
どちらでしょうか、と言ったんです。
そうしたら、もちろん体制内改革でございますからご安心願いたい、と言った。
それで、わかりました、と言って、警戒心を僕は解いたんです。
ずっと公明党の皆さんとは仲はいいですよ。
それから竹入義勝さん。
これは、藤原弘達さんに対する出版妨害があった。
あの時、竹入さんと仲が良かったのは田中角栄さんなんだよ。
しかし、僕も古いつき合い。
あの事件には僕は何の関係もないんだけれどもね。
僕がなぜ近づいたのかというと、要するに敵に回してはいかんということです。
それだけの話です。」
(「情と理 後藤田正晴 回顧録 [ 下 ] 」の 304~305ページより引用 )