16/06/03 11:41:59.41
>>1より
■「原爆は身から出た錆」
■「安倍が南京に来い」
一方、インターネット上では「日本は先に中国に跪いて謝れ」「オバマが広島を訪問する前に安倍が南京に来るべきだ」
とする声が上がった。それに対し、「地球市民として平和を希求する」という内容の書き込みは、筆者の見る限りにおいて
ほとんど存在しなかった。オバマ大統領が示した「核廃絶への決意」、この意義についてはほぼ黙殺された形だ。
広島の被爆者の声を取り上げた中国メディアもあった。「広島幸存者:奥巴馬即使不道歉也要承認核武器危害
(「広島の被爆者、オバマ大統領が謝罪せずとも核兵器の危害を認めてほしい」)」というタイトルを掲げた記事は、
評論は加えず被爆者のコメントを中心に紹介したものだ。
記事は「私が死ぬ前にオバマ大統領に会いたい。謝罪のためではなく、同じ立場で祈りを捧げてほしい」という
79歳の女性のコメントを紹介し、被爆者たちが望んでいることは、核兵器使用がもたらした災いを認めることだと伝えた。
中国政府の統制強まる中国メディアにおいても、こうした「市民目線」の良心的な記事があることは好ましいことだ。
だが、これに対する書き込みは、和訳すら憚られるような日本への痛烈な批判ばかりだった。
「原爆が落とされたのは身から出た錆」「もっと原爆を落とせばよかった」―無辜の市民の苦しみを無視した、
そんな非人道的なコメントである。
たとえ敵対関係にあろうとも、戦争被害者として一般市民が味わった苦しみは同じであるはずだ。
かつては敵対した日中両国の一般市民が、共通の感情を持つことができるのは唯一この点にあるはずだ。
日本と中国、果たしてこの2つの国民は、過去の歴史を乗り越えて、は互いに市民目線で痛みを分かち合えるのだろうか。
インターネット上の声は必ずしも民意を反映してはいないと思いたい。中国で筆者が対話した中国人の中には、
「戦争では互いに民衆が苦しんだ」と理解を示す人々もいるからだ。
■謝罪を求めない「曖昧な民族」
その一方で、戦勝国のオバマ大統領と敗戦国の被爆者が演説終了後に握手を交わし、抱擁を交わしたシーンを、
中国人の市民はどう受け止めただろうか。
日本国内でもオバマ大統領の演説に対する疑問や不満の声もある。演出ではないか、と斜に構えた見方もある。
原爆投下から71年、その後も苦しみを引きずった被害者からすれば、そう簡単に癒える心の傷ではない。
それでも、日本原水爆被害者団体協議会の代表委員を務める坪井直さんは、オバマ大統領と握手をしながら
「原爆を投下した米国を責めてはいない」と伝えたという。
握手のシーンはテレビを通して全国のお茶の間にも流れた。恐らく世界の人々もこれを目にしただろう。
この映像がもたらしたのは「互いに寛容であること」がどれほど大きな意味を持つか、という無言のメッセージである。
戦争がもたらした憎しみ、これを乗り越えられるかは人類普遍のテーマである。そして乗り越えてこそ到達できるのが
「和解」であり、それに必要なのが未来志向の寛容さである。
謝罪を問わず、握手に応じる日本人―中国人にはそれが「曖昧な民族」と映るかもしれない。
だが、未来志向にならなければ、永遠に新たな歴史の1ページをめくることはできない。
謝罪なくとも平和を希求する広島の被爆者、その姿がなぜ中国には伝わらないのかと、歯がゆい思いである。(了)