16/05/20 11:21:08.29
2016.5.20 07:00
★【竹島を考える】「尖閣奪還は韓国の独島占拠に学べ」とは…台湾とともに割譲と主張する中国の論理矛盾 下條正男・拓殖大教授
この4月30日、岸田文雄外相と中国の王毅外相が北京で会談した際、王外相は岸田外相に向かって
「中日関係は度々谷間に陥った」「その原因は日本側が一番よく分かっている」とし、「歴史を直視」するよう迫った。
その背景には、尖閣諸島をめぐる日中間の確執がある。2010(平成22)年9月7日、尖閣諸島周辺で中国漁船が
故意に日本の巡視船に衝突し、漁船の船長が公務執行妨害で逮捕された事件が発端であった。
■一触即発の時を待っていた中国
中国が尖閣諸島に触手を伸ばすのは、沖縄が日本に返還されることが決まった1970(昭和45)年頃にまで溯(さかのぼ)る。
中国側ではそれ以降、虎視眈々(たんたん)と尖閣諸島を狙ってきたのだ。
1992(平成4)年には「領海法」を制定して尖閣諸島を中国領とし、1998(同10)年には「大陸棚法」を成立させている。
さらに衝突事件の4カ月前には、「八路軍太行紀念館」のサイトに尖閣問題関連の論稿が数多く掲載された。
中国側は、戦略的に尖閣諸島を紛争地域化しようとしていたのであり、一触即発の時を待っていたのである。
衝突事件の後、中国各地で反日暴動が起き、日系企業が襲撃されたのは、なにも偶然ではない。
■「韓国に倣え」と主張した香港週刊誌
香港の週刊誌『亜洲週刊』が2010年9月26日号で「韓国に学ぶ」と題して特集を組んだ事実も、そのことを示している。
同誌は特集で「日本から韓国が独島(竹島)を奪還した貴重な経験を学べば釣魚島(尖閣諸島)回復も夢でない」とした。
竹島は1953(昭和28)年頃から韓国の民間人が上陸し、翌年、韓国の海洋警備隊が進駐して、今も不法占拠を続けている。
同誌は韓国の竹島占拠に倣い、中国も民間人を大挙尖閣諸島に上陸させれば、釣魚島を奪取できる、としたのである。
■噛(か)み合わない中韓両国と日本の争点
これに対し、時の民主党政権は2012(平成24)年9月12日、尖閣諸島の国有化に踏み切り、
国連で演説した野田佳彦首相(当時)は、「国際法の重視」と「法の支配」を強調した。
だが中国側の歴史認識では、尖閣諸島は日清戦争の最中(1895年1月)、日本が侵奪したことになっている。
この論理は、竹島を不法占拠する韓国側とも共通している。韓国側では「独島は6世紀以来韓国領だったが、
日露戦争の最中(1905年)、日本に奪われてしまった」としているからだ。
過去の歴史を口実とする中韓両国と、国際法を重視する日本とでは、最初から争点が噛み合っていなかったのである。
■台湾を「外夷伝」とした清朝の文献
私はこうした事態を憂慮し、産経新聞に依頼して2010年11月、尖閣諸島が歴史的に中国領ではなかったことを示す
文献を公表した。それが官撰の『大清一統志』である。
清朝時代に編纂(へんさん)された『大清一統志』では、台湾府の北限を「鶏籠(ジーロン)」(現在の基隆)としており、
そこから170キロも離れた尖閣諸島は当然、中国領ではないからだ。
ところが、この文献について報じた同日の紙面で、中国漁船の衝突映像公開が大々的に伝えられ、
『大清一統志』の方は注目されなかった。
そこで、そのあとも『正論』などを通じ、「尖閣諸島が明代から中国領であった」とする中国側の
主張の誤りをただした。明代に編纂された『大明一統志』では、澎湖(ほうこ)諸島を琉球国の属領とし、
台湾(高華嶼)を「外夷(がいい)伝」に入れているからだ。
■「尖閣は中国領」と論陣を張った日本の学者
だがこの程度の歴史的事実は、中国側も承知していたはずである。それが表面に出なかったのには、理由がある。
京都大学教授だった故井上清氏らが「尖閣諸島は中国領だ」とする論陣を張り、国際法偏重の日本側が
歴史研究に不熱心だったからである。
しかし、台湾が清朝に編入され、福建省の一部となったのは1684年。それも、鶏籠を北限としていた。
>>2へ続く
URLリンク(www.sankei.com)
2:ちゅら猫φ ★
16/05/20 11:21:17.97
>>1より
それに『大清一統志』には、イエズス会の宣教師らが測量した「台湾府図」が載せられている。
そこには尖閣諸島はもちろんのこと、尖閣諸島と台湾の間にある棉花島、花瓶島、彭佳島の3島も描かれていない。
台湾府の疆域(きょういき)には、尖閣諸島は含まれていなかったのである。
にもかかわらず、井上氏らは尖閣諸島を中国領だとした。その証拠とされたのが、中国から琉球国に「冊封使」
として派遣された使臣たちの記録である。そこには釣魚島や赤尾嶼など、尖閣諸島の島嶼(とうしょ)が記録されているからだ。
■中国側の「不都合な真実」
だが、冊封使として琉球に渡った齋鯤(せいこん)は、著書『東瀛百詠(とうえいひゃくえい)』の中で鶏籠山を
「なおこれ中華の界のごとし」とし、「鶏籠山、中華の界を過ぎ」としている。これは、鶏籠周辺を台湾の界(さかい)
とする地理的理解が一般化していたからにほかならない。
その台湾は、清仏戦争後の1885年9月、台湾省に昇格した。その際、初代の「台湾巡撫(じゅんぶ)」
となった劉銘伝(りゅうめいでん)は、台湾省の疆域を「南北相距たること七百余里、東西近きは二百余里、
遠くは或いは三・四百里」としている。
台湾省の疆域は、『欽定大清会典図』の「台湾省全図」で確認できる。そこに描かれているのは台湾全島と、
澎湖諸島だけで、尖閣諸島は含まれていない。
これらはいずれも中国側にとっては「不都合な事実」である。中国側はこれまで、「日清戦争の結果、
台湾が日本に割譲された際に、その付属島嶼である尖閣諸島も一緒に割譲されていた」としてきたが、
台湾省には、最初から尖閣諸島は含まれていなかった。
■「歴史を直視」すべきなのは日中どちらか
先月末の外相会談で、王外相は岸田外相に「歴史を直視」するよう大言壮語した。
だが尖閣諸島は、歴史的に中国の領土であった事実はない。
これは、国際法上も、尖閣諸島は中国の領土ではなかったということである。
その尖閣諸島を狙って日本を挑発し、いたずらに東緊張を高めているのは中国なのである。
中国はこの「歴史を直視」することがない限り、かつての歴代王朝がそうだったように、
周辺諸国から嫌われ者にされてしまうのである。(了)