16/04/27 16:15:24.42
>>1より
かの国は、国境なき記者団の「報道の自由ランキング」でもそこそこ上位につけるほど、メディアの自由は
確保されている。が、人命救助を優先すべき現場で、レポーターが「ご覧ください、今にも崩れそうな建物です。
あぁ!危ない!」なんてプロレス中継のような報道をする「自由」は認めていないというわけだ。
だが、この「災害報道規制論」は結局うやむやにされる。マスコミから猛烈な反発があったからだ。
たとえば当時、「朝日新聞」の編集委員だった軍事評論家の田岡俊次氏も、「まるで有事の際、自衛隊のヘリの
飛行を禁止し、報道のヘリに機関銃を積んで、対地攻撃させるような珍案だ」(朝日新聞1995年3月15日)と
痛烈に批判。その他のマスコミも「知る権利を守れ」とシュプレヒコールを送った。
その翌年、長野県更埴市での山火事取材中、テレビ信州と長野放送の取材ヘリが空中衝突して6人が死亡する
という痛ましい事故が発生しても、マスコミの主張はブレることはなかった。それは2000年代に入っても変わらない。
有珠山、三宅島の噴火、新潟中越沖地震、そして東日本大震災でも被災地入りしたマスコミは「報道」の
名のもとで「自由」に振る舞い、その度に被災者と衝突してきた。もちろん、そういう話が注目を集めるたびに、
「災害報道のあり方を考えよう」なんて議論にはなるが、喉元過ぎればなんとやらで、気がつけば25年以上も
同じようなことを続けてきたというのが「現実」なのだ。
リコール隠しをした三菱自動車が幾度となく不正に手を染めたことを、マスコミは「隠蔽体質」だと批判を
している。同じロジックでいけば、25年も同様のトラブルを繰り返すのは、マスコミに染み付いた「体質」
によるものだと考えざるをえない。
■絶大な“金力”を誇り
■殿様取材を繰り広げる在京キー局
では、どのような「体質」なのか。まずひとつ考えられるのは、「メディアの上下関係」という点だ。
どこかの場所で災害が起きる。それを取材して、被災地に情報を迅速に届けるという意味では、
現地の地方紙や地元テレビ局の役割は非常に大きい。阪神・淡路大震災や東日本大震災でも、
輪転機がないなかで情報を届け続けた地元新聞が、被災者たちに大いに役立ったのは有名だ。
しかし、一方で現地メディアも「被災者」であるため、マンパワーが足りない。そこで在京メディアを中心に
他地域から「応援」がくる。そう聞くと、彼らは当然、現地メディアのサポートにまわるものだと思うかも
しれないが、必ずしもそうではない。中継技術やら新聞発行の協力はするものの、取材で現地メディアの
「指揮下」に入るというわけではなく、むしろマンパワーが足りない現地メディアの方が地の利がある
ということで、在京・在阪メディアのコーディネート的なサポートにまわる局面も多い。
なぜか。テレビの場合は特に露骨だが、キー局と系列の地方局は明確に「上下関係」があるためだ。
地方局にとってキー局は、潤沢な制作費でつくられた映像コンテンツの供給元であると同時に、
「ネットワーク費」をいただける大事な存在だ。これはキー局が系列局の「枠」を買い取った費用と
されているが、実際のところ地方局への「補助金」という側面もある。
こういう強い立場の人間なので、少しくらい非常識な振る舞いをしても現地メディアも諌めない。
結果、被災者と衝突してしまうというわけだ。
いやいや、いくら殿様気分でやってくるからといって、誰も彼もが非常識なことをするわけではないでしょ
とツッコミが入るかもしれないが、残念ながらそんなことはない。在京・在阪メディアの「常識」は、
被災者たちの「非常識」になってしまうという構造的な問題があるからだ。
被災地のメディアは、自分たちの読者・視聴者のために報道をおこなう。つまり、被災者が必要な支援など、
より地域に根ざした情報に重きを置く。しかし、在京・在阪メディアはそうならない。
彼らの読者・視聴者というのは、「被災者以外の全国民」なので、被災地のどこそこの小学校で水が
足りていないなどの情報では「数字」がとれないのだ。だから、遠く離れた人々にも巨大地震を「体感」
できるよう「被害」取材に重きを置く。かくして、雲仙の火砕流のように「大災害らしい絵」を求める
取材競争が繰り広げられるのだ。 >>3へ