16/03/15 22:21:18.91 gQB9h8xy0.net
■オーストラリアでの「アボリジニ狩り」の記録…
ある日の獲物として『アポリジニ 17人』と記載があった。1928年のことである。■
オーストラリアが流刑地だったのは18世紀までだった。
だから、オージーに先祖を聞くと、 「うちは18世紀以降に入植した」 と答えるそうだ。
だが、その入植者たちは流刑者以上に悪質だった。
白人たちは毎週末に、アボリジニ狩りに出かけた。 ニューサウスウェールズ州立図書館に
残された記録には、ある日の獲物として『アポリジニ 17人』と記載があった。
1928年のことである。日本で言えば昭和3年、 初の普通選挙による総選挙が行われた年だ。
手塚治虫が生まれた年でもある。
★アボリジニの虐殺に関する子供の時の思い出を、女流詩人メアリー・ギルモアは
『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙(1938年3月4日)に次のように書いている。
…「水飲み場の周辺に何百人ものアボリジニが死んでいた。大人たちが集まり、
アボリジニの狩りに出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛な狩猟犬が輸入された。
アボリジニたちを狩りだし、食い殺させるためだった。
ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んで
いるのも見た」…
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