16/01/11 21:36:03.86 hZ/FRYK90.net
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「やすもりの歴史」ってとこ見てみろ
ガチ在日の焼肉だぞ
1905年9月、日本の山陽汽船によって「関釜連絡船」(釜山-下関)が就航しました。
当時、朝鮮では多くの人々が土地調査事業で土地を奪われ、産米増殖政策で借金がかさんで生活苦にあえいでいました。
さらに戦時労働動員で何十万もの人々が強制的に日本に連行されたという背景があったのです。
ただ、渡航には、厳しい検問がありました。
旅費以外に10円を所持し、日本語がわかり、就職先が確実な者のみが上陸を許されました。
戦後、全国の在日韓国朝鮮人達が、下関からの出国を考え、下関に集まりました。
しかし帰国後の生活への不安から渡航をあきらめた韓国朝鮮人は下関にとどまり生活を始めたのです。
韓国朝鮮人は、日本に渡ってからも朝鮮での生活や伝統を活かす為の工夫をこらしました。
日本式の作法や習俗にはなじみ難く、自然と故郷での生活様式を持ち込む事になり、
特に女性たちは民族服を好んで着て、韓国の料理を作りました。
彼らに家を貸してくれる日本人はいませんでしたので、自分達で建てて暮らしていました。
中には、オンドル(床下に暖かい空気を送り部屋を暖める装置。今でいう床暖房のこと)を備えた家もありました。
日本社会の差別と偏見から助け合うため、次第に一ヵ所に集まるようになり、やがて集住地区が形成されました。
集住地には「故郷のにおい」がありました。
唐辛子やにんにくをはじめとする韓国料理の食料、韓国服地、韓国食堂などの店があり、仕事の斡旋をしてもらうこともできました。
故郷を離れた人々にとっては、気がねなく韓国語で話すことができる、唯