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安倍のスピーチライターの谷口関連人脈を見ろよw
谷口 智彦(たにぐち ともひこ、1957年 - )は、日本の雑誌記者、ジャーナリスト。 内閣官房参与、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。
株式会社日経BP編集委員室主任編集委員、外務省外務副報道官など歴任。
1957年に生まれた[1][2]。東京大学では法学部に在籍し、1981年に卒業した[2]。大学卒業後は日本朝鮮研究所にて研究員に就任し、
1984年まで務めた。同年、東京精密の従業員となり、翌年まで勤務した。
谷口が働いていた日本朝鮮研究所とは?
1961年に日本朝鮮研究所として設立され、雑誌『朝鮮研究』を出版。
1984年、誌名を『朝鮮研究』から『現代コリア』に改題。
日本朝鮮研究所の所長の佐藤勝巳とは?
新潟県出身。元日本共産党旧制中学を卒業後、新潟県立巻高等学校を中退し、川崎汽船に勤務するが、1950年、労働組合専従だったためにレッドパージを受け失職。
在日朝鮮人の帰還事業に参加し、北朝鮮から2度(1962年11月10日、1964年9月23日)にわたり勲章(「朝鮮民主主義人民共和国赤十字栄誉徽章」)を授与される。在日韓国・朝鮮人差別反対運動にも大きくかかわった。
その後、北朝鮮の実態に失望し、日本共産党を脱党、反北朝鮮的立場へと転向した。北朝鮮に拉致された日本人の救出運動に乗り出したが、一方で自らが北朝鮮へ送り出した人々の支援救出運動にはかかわらなかった。
存在しないとされていた拉致事件と被害者が北朝鮮から帰って来た事に対して「救う会」会長としてどう思っているのか?とのTV局の質問に対して、
暫く押し黙った後に「拉致事件を報道してくれたのはニシ(2紙誌)だけでした」とだけ答えた。
1957年、新潟市で民主商工会活動に参加。
1958年、在日朝鮮人の祖国帰国実現運動に1984年まで参加。
1960年、日朝協会新潟支部専従事務局長。帰国運動と日韓会談反対運動に参加。
1961年、『朝鮮研究』創刊(11月)。
1964年、上京、日本朝鮮研究所所員。翌年から事務局長。
1968年、金嬉老事件裁判で特別弁護人を務める。
1969年、出入国管理令改正反対運動に参加。
1970年、日立就職差別事件裁判にて原告補佐人。以後、個人に対する多くの反民族差別運動に関与。この後、反北朝鮮的立場へ転向、「研究所」も編集方針を転換した。
1984年、現代コリア研究所(日本朝鮮研究所から改称)所長。『朝鮮研究』も『現代コリア』に改題。
1996年、北朝鮮情勢について新潟市で講演。そこで横田めぐみ拉致事案を地元関係者から聞き取り、水面下で情報を提供し始める[1][2]。
1998年、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」会長。
2007年、『現代コリア』廃刊(11月)。インターネット・ウェブ上に活動を移す。
2008年、「救う会」会長辞任(名誉会長就任要請を拒否)。
2013年12月2日、肺炎のため逝去。84歳没。