【国際】ナチス収容所を真似て日本人に実行したソ連の戦争犯罪 70年を経て蘇ったシベリア抑留の真実 [08/21]at NEWSPLUS
【国際】ナチス収容所を真似て日本人に実行したソ連の戦争犯罪 70年を経て蘇ったシベリア抑留の真実 [08/21] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/08/21 15:43:13.70
★ナチス収容所を真似て日本人に実行したソ連の戦争犯罪 70年を経て蘇ったシベリア抑留の真実
2015.8.21(金) 伊東 乾

70年の月日を経て再びすれ違う2つの列車。

どこまでも続く単線の満州鉄道を、1つは北を、1つは南を目指して進み、たまさか駅の複線ホームですれ違った昭和20年、秋。

決して映画などではなく、実際にあった出来事から今年の8月15日、私たちが大学で開いた「哲学熟議」での対話をご紹介したいと思います。

■「引揚げ」という始まり

あれは2008年のことでした。私は8月15日を記念する小さなセミナーを開き、真宗大谷派本龍寺ご住職、
本多弘之先生にご出講いただいて「引揚げ」の現実を伺いました。

本多先生は昭和13(1938)年、北満州の開拓地、弥栄村にお生まれになりました。お父さんが僧侶として満州開拓農村を
回るご勤務、「馬賊」の来襲などもある北辺の開拓地「弥栄村」で本多先生は生を受け、幼少期を過ごされました。

馬賊と言っても元来その一帯で放牧していた人々であって、政治的にその地に作られた「満州国」から追い払われたのです。

満州国は国籍の法規がなく、最初の入植者は「武装移民」の屯田兵として大陸に入り、人間を見つければ追い出すか
殺害するか、という血腥(ちなまぐさ)い殺伐とした空気の中、北の大地が農地として開墾されていました。

やがて太平洋戦争が開戦し、敗戦を迎え、弥栄村の人々はまたしても政治的な理由で、
しかし今度は極めて短時間のうちに内地へ引揚げねばならなくなりました。ほとんど着のみ着のままの格好で
1700人からの村人が満鉄の駅に集まり、ほぼ丸一日待たされた末にやって来たのは「無蓋車」だったのです。

石炭や牛馬などを積んで走る、屋根のない物資輸送用の貨車を牽引する蒸気機関車だったのです。

当時小学1年生だった本多先生は家族、村民の人々と一緒に無蓋車に乗り込みました。汽車は南を目指して走ります。
8月の満州は夏とは言いながら、吹きさらしの貨車に高齢者、女性と子供ばかり1700人詰め込まれた人々にとっては過酷な旅が始まりました。

1台目の列車は南を向けて走る「復員無蓋車」でした。

実際には、たった3日間の移動だったそうです。ソ連に見つからぬよう、昼間は森の中に隠れ、主として夜に移動して
南を目指しましたが、結局発見されて、弥栄村の人々は強制収容所に捕らわれ身となってしまいました。

収容所では平時の常識は全く通用しませんでした。些細なことから、日本人がソ連兵に銃底で殴り殺される現場も
目の当たりにされたそうです。約3か月の収容期間に、少なからざる人が非業の最期を遂げられた。しかし、それだけではなかったのです。

URLリンク(jbpress.ismedia.jp)

>>2へ続く

2:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/08/21 15:43:24.15
>>1より

■戦争は最も弱いものに最も惨い仕打ちをする

夏の満州はめったに雨が降りません。無蓋車での移動は、それを念頭に置いていたのでしょう。しかし現実は違っていました。

屋根のない機関車に、突然の豪雨が降りかかりました。普段なら牛や馬、石炭などを積む貨車の中は、
子供の膝くらいの高さまで水が溜まり、年寄りや女子供ばかり1700人を乗せた「南を向く列車」は水浸しになってしまった。

水は急速に熱を奪います。弥栄村から引き揚げの人々は一挙に体力を奪われました。こうなると、弱い者から犠牲が出始めます。

出発時点で1700人いた村民の中で、最終的に帰国できたのは800~900人ほど、つまり半分近くの人が、引揚げ途中に命を落とされました。

本多先生は奇跡的に生還されましたが、長年、一緒に引き上げた子供は全員亡くなっただろうと思っておられたそうです。それくらい過酷な状況が続きました。

さっきまで泣いていたと思った赤ん坊が泣かなくなり、静かになったと思ったら動かなく冷たくなっている・・・。
何十、何百という数、そうした現場のすぐそばで、多感な7歳の本多少年はあるがままの現実を目撃し、今も心に焼きつけておられます。

この世のものとも思われない悲鳴・・・。今でも耳に残っているそうです。先ほどまで生きていた赤ちゃんが事切れ、
そのまま運ぶわけにはいかないので、汽車が止まったところに埋めてゆかねばならない。

そんなこと、お母さんとしては絶対にできません。
その悲鳴と、すでに動かなくなった赤ちゃんをお母さんの手から引き離し、埋葬しなければならなかった同乗者の人々。

あってはならないことが、1945年の満州では実際に何百何千と起きてしまった。

URLリンク(jbpress.ismedia.jp)

■復員列車・強制収容所行き

もう1台の列車、こちらは北を目指していました。
新京で終戦を迎えた陸軍少尉・石黒貞彦さんからいただいた「能登のワカメ」の話を、このコラムの初回に記した、あの石黒少尉殿です。

部隊を指揮するはずの関東軍首脳はいつのまにか消えてしまい、現場は大混乱。
やがてソ連軍が入って身柄を確保され武装解除、捕虜の人々はハルビンへと送られました。

「ダモイ」というのはロシア語で帰還を意味する言葉ですが、和製ロシア語ダモイ列車という言葉が使われるようになった。

すでに武装を解除され、私たちは日本に送り返されるらしい。いや、そうであってほしい・・・。

兵に多くの思惑が過ぎりましたが、実際にソ連が考え、実行したのは、武装解除した日本兵をシベリア開発の労働力としての強制徴用でした。

このアイデアは1945年4~5月、ナチス・ドイツが敗れ、ソ連が本格的にナチス式の「合理的」な強制収容所の計画と実行ノウハウを知り、
それを模倣して行われた由、ベルリン北部のザクセンハウゼン収容所で知り、改めて衝撃を受けました。

少尉殿たちが乗せられたのは復員だ、と嘘を吹き込んで実際には強制収容所に送り込む、そういう騙しの列車だった。

実際、ソ連の対日参戦は終戦直前の8月になってから。現地では兵士はもとより、民間人であっても男はすべて「戦犯容疑」で
捕らえられ「戦犯」としてシベリアに送られ、主として樵などの強制労務に就かされた。スターリン政権下の悪辣な犯罪にほかなりません。

(以下略)

URLリンク(jbpress.ismedia.jp)

3:名無しさん@13周年
15/08/21 15:46:46.87 HIf2VeFV3
ソ連はまさに戦犯国家


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