15/08/21 15:43:24.15
>>1より
■戦争は最も弱いものに最も惨い仕打ちをする
夏の満州はめったに雨が降りません。無蓋車での移動は、それを念頭に置いていたのでしょう。しかし現実は違っていました。
屋根のない機関車に、突然の豪雨が降りかかりました。普段なら牛や馬、石炭などを積む貨車の中は、
子供の膝くらいの高さまで水が溜まり、年寄りや女子供ばかり1700人を乗せた「南を向く列車」は水浸しになってしまった。
水は急速に熱を奪います。弥栄村から引き揚げの人々は一挙に体力を奪われました。こうなると、弱い者から犠牲が出始めます。
出発時点で1700人いた村民の中で、最終的に帰国できたのは800~900人ほど、つまり半分近くの人が、引揚げ途中に命を落とされました。
本多先生は奇跡的に生還されましたが、長年、一緒に引き上げた子供は全員亡くなっただろうと思っておられたそうです。それくらい過酷な状況が続きました。
さっきまで泣いていたと思った赤ん坊が泣かなくなり、静かになったと思ったら動かなく冷たくなっている・・・。
何十、何百という数、そうした現場のすぐそばで、多感な7歳の本多少年はあるがままの現実を目撃し、今も心に焼きつけておられます。
この世のものとも思われない悲鳴・・・。今でも耳に残っているそうです。先ほどまで生きていた赤ちゃんが事切れ、
そのまま運ぶわけにはいかないので、汽車が止まったところに埋めてゆかねばならない。
そんなこと、お母さんとしては絶対にできません。
その悲鳴と、すでに動かなくなった赤ちゃんをお母さんの手から引き離し、埋葬しなければならなかった同乗者の人々。
あってはならないことが、1945年の満州では実際に何百何千と起きてしまった。
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■復員列車・強制収容所行き
もう1台の列車、こちらは北を目指していました。
新京で終戦を迎えた陸軍少尉・石黒貞彦さんからいただいた「能登のワカメ」の話を、このコラムの初回に記した、あの石黒少尉殿です。
部隊を指揮するはずの関東軍首脳はいつのまにか消えてしまい、現場は大混乱。
やがてソ連軍が入って身柄を確保され武装解除、捕虜の人々はハルビンへと送られました。
「ダモイ」というのはロシア語で帰還を意味する言葉ですが、和製ロシア語ダモイ列車という言葉が使われるようになった。
すでに武装を解除され、私たちは日本に送り返されるらしい。いや、そうであってほしい・・・。
兵に多くの思惑が過ぎりましたが、実際にソ連が考え、実行したのは、武装解除した日本兵をシベリア開発の労働力としての強制徴用でした。
このアイデアは1945年4~5月、ナチス・ドイツが敗れ、ソ連が本格的にナチス式の「合理的」な強制収容所の計画と実行ノウハウを知り、
それを模倣して行われた由、ベルリン北部のザクセンハウゼン収容所で知り、改めて衝撃を受けました。
少尉殿たちが乗せられたのは復員だ、と嘘を吹き込んで実際には強制収容所に送り込む、そういう騙しの列車だった。
実際、ソ連の対日参戦は終戦直前の8月になってから。現地では兵士はもとより、民間人であっても男はすべて「戦犯容疑」で
捕らえられ「戦犯」としてシベリアに送られ、主として樵などの強制労務に就かされた。スターリン政権下の悪辣な犯罪にほかなりません。
(以下略)
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