【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍への憎しみ根付かせた虐殺 指揮官殺された報復で民間人に銃口 [08/20]at NEWSPLUS
【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍への憎しみ根付かせた虐殺 指揮官殺された報復で民間人に銃口 [08/20] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/08/20 14:26:03.60
★【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍への憎しみ根付かせた虐殺 指揮官殺された報復で民間人に銃口
2015.08.20

日本軍が「沖縄を守るため」に勇戦した場所は、県内各地にある。
そして、それらを伝える遺品や資料は県内外で保管されている。

「天久台(あめくだい)の攻防戦」も忘れてはならない。昭和20(1945)年5月12日、
沖縄本島最西部を南下する米海兵隊第6師団は、首里城から約2キロ離れた那覇北の天久台で、
日本軍の独立混成第44旅団と激突した。日本軍は劣勢だったが、米軍の猛攻にひるむことなく、
1週間もその進撃を阻止した。

特に、安里52高地(米軍呼称・シュガーローフ)をめぐる戦闘では、すさまじい争奪戦が展開され、
日米両軍兵士による白兵戦が繰り広げられた。最終的に、この攻防戦は米軍が制したが、
米軍に戦死傷者の2662人と、戦闘神経症患者1289人を強いた。
日本軍将兵がいかに米海兵隊員に恐怖を与えたかの証左である。

航空自衛隊那覇基地内には、旧海軍砲台跡があり、12センチ砲が完全な姿で残されている。
案内版には、この砲台が昭和20(45)年4月、沖縄西方海上に現れた米艦隊に砲撃を加え、
軽巡洋艦1隻を撃沈したと記されている。

東京・九段北の靖国神社には、沖縄戦を戦い、米軍総指揮官のサイモン・バックナー中将を
戦死させるなど大戦果を挙げた、日本陸軍野戦重砲第1連隊第2大隊の96式15糎榴弾砲が現存する。

バックナー中将が亡くなった場所には、野戦砲第1連隊戦友会によって昭和60(85)年、
十字架をかたどった慰霊碑が建立された。敵将といえども、敬意を表して丁重に弔う武士道精神の表れといえる。

ただ、バックナー中将の戦死後、当時の米兵らは報復として、あろうことか無辜の民間人に
銃口を向け、虐殺した。たとえ一部であっても、そのような理性なき野蛮な行為が、
沖縄県民の心に拭いようのない米軍への憎しみを根付かせてしまった側面は否定できまい。

バックナー中将の慰霊碑の近くには、北郷格郎大佐率いる歩兵第32連隊の壕と慰霊碑がある。
第32連隊の将兵は、沖縄戦の司令官・牛島満中将が自決した事実上の沖縄戦終結
(6月23日)後も、国吉台の洞窟に潜んで戦い続けた。

大東亜戦争終結後の8月22日、米軍が接触を試みたとき、北郷大佐は初めて終戦を知り、
1週間後に帰順した。このとき、北郷大佐は「天皇陛下の命により、米軍のところへ行く」
として、降伏は拒み続けた。

第32連隊壕の近くには、第二高等女学校の女学生で編成された「白梅学徒隊」の慰霊碑
「白梅之塔」があり、彼女たちが自決を遂げた「白梅学徒看護隊 自決ノ壕」が残っている。

有名な「ひめゆり部隊」の女学生らと同様、白梅学徒看護隊も、献身的に負傷兵の看護にあたり、
最期は壕内で尊い命を絶った。現在の価値観では理解できないかもしれない。
ただ、日本軍将兵も、沖縄の女学生も「沖縄を守ろう」「日本を守ろう」と
一丸となって米軍に立ち向かった-。これが沖縄戦の実相である。

■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。
法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターや
コメンテーターを務める。航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。
著書に『日本が戦ってくれて感謝しています-アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版)、
『撃墜王は生きている!』(小学館)、『ありがとう日本軍』(PHP研究所)など。

URLリンク(www.zakzak.co.jp)
航空自衛隊那覇基地内にある旧海軍12センチ砲
URLリンク(www.zakzak.co.jp)


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