【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍も震え上がった日本軍の強靭さ 16日間の攻防戦 [08/20]at NEWSPLUS
【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍も震え上がった日本軍の強靭さ 16日間の攻防戦 [08/20] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/08/20 13:46:52.88
★【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍も震え上がった日本軍の強靭さ 16日間の攻防戦
2015.08.19

昭和20(1945)年3月26日、米陸軍歩兵師団が、那覇の西方に位置する慶良間
(けらま)諸島に上陸を開始し、沖縄地上戦の火ぶたが切って落とされた。
続いて4月1日、米陸軍師団や海兵師団が、200隻以上の米戦闘艦艇の猛烈な
艦砲射撃の支援を受けて、沖縄本島西部の読谷(よみたん)海岸付近に上陸を開始した。

ところが、日本軍は一発も撃ってこない。米軍は猛烈な反撃を想定していたが、
日本軍は沈黙したままだった。日本軍守備隊は、圧倒的物量を誇る米軍をまずは上陸させ、
間合いを詰めてから一挙にたたく戦術に転換したのである。

沖縄戦に投入された米軍の兵力は、洋上の支援部隊を含めると約54万8000人。
強力な火力を持つ艦艇約1500隻と、艦載機約1200機、500両を超える戦車、
野砲、ロケット砲などを準備していた。

一方、日本軍は牛島満中将率いる陸軍第32軍など、陸海軍合わた将兵は約11万6400人。
戦車や野砲、対戦車砲などの数では劣っていたが、勇戦敢闘し、約10万人の犠牲と引き換えに、
圧倒的優勢だった米軍に死傷者約6万5600人もの大損害を与えたのである。
日本軍は一方的にやられていたのではなかったのだ。

上陸した米軍の前にまず立ちはだかったのは、わずか1200人の賀谷興吉中佐率いる、
独立歩兵第12大隊、通称「賀谷支隊」だった。上陸後に本島南部に向かった米陸軍2個師団の
前進を妨害し、進撃を遅らせる「遅滞戦闘」を展開して、米軍を悩ませ続けたのである。

さらに、沖縄戦最大級の戦闘の1つ、本島中部の「嘉数(かかず)高地の戦い」では、
日本軍はあらかじめ北側斜面にトーチカを構築し、南側斜面には迫撃砲や、
歩兵が身を隠す棲息壕などを配置した「反射面陣地」で待ち構えた。

この罠に米軍ははまった。日本軍は米軍に猛烈な銃火を浴びせたかと思えば、壮絶な白兵戦を
繰り広げるなどして、米軍将兵に衝撃を与えた。戦闘は熾烈を極め、米軍が取ったと思えば、
日本軍がすかさず奪還する、一進一退の攻防戦が繰り広げられた。

4月19日の戦闘では、米軍のM4シャーマン戦車30両が嘉数高地に向けて進撃してきたが、
巧みに配置した日本軍の速射砲や高射砲が狙い撃ちするなどして、何と22両を撃破した。
大戦果であった。

日本軍は「沖縄を守ろう」と、圧倒的物量を誇る米軍の前に敢然と立ちはだかった。
日本軍は約6万4000人もの尊い命を失ったが、4月8日から16日間の攻防戦で、
米軍の戦死傷者は、予想をはるかに超える約2万4000人に至ったのである。
嘉数高地に投入された部隊には京都府や福井県の兵士が多かったという。
米軍はこの大損害にがくぜんとし、日本軍守備隊の強靭さに震え上がったのである。

■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。
法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターや
コメンテーターを務める。航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。
著書に『日本が戦ってくれて感謝しています-アジアが賞賛する日本とあの戦争』
(産経新聞出版)、『撃墜王は生きている!』(小学館)、『ありがとう日本軍』(PHP研究所)など。

URLリンク(www.zakzak.co.jp)

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