15/08/04 12:26:12.33
>>1より
■砂川事件の伊達判決と最高裁判決
言うまでもないことだが、集団的自衛権問題の根源にあるのは、日米安保条約である。
日米安保条約の前文には、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の
権利を有していることを確認し」とあるように、集団的自衛権の行使を前提としている。
したがって、日本が集団的自衛権を行使しないようにする最も確実な方法は、
日米安保条約を廃棄することである。
米軍が日本に駐留しているのは、サンフランシスコ平和条約調印と同時に日米安保条約を
締結したからである。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とした憲法9条2項と
米軍の駐留という日米安保体制の併存は、普通に考えれば矛盾であり、欺瞞としか
いいようのないものである。
砂川事件での東京地裁の伊達判決(1959年)が、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容
したのは、指揮権の有無、出動義務の有無にかかわらず、日本国憲法第9条2項前段によって
禁止される戦力の保持にあたり、違憲である」としたのは、憲法を素直に読む限り、
ある意味当然の判決であった。
これに対して、跳躍上告(高裁を飛ばして、いきなり最高裁に上告)された最高裁は、
「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する
戦力とは、日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。
したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障
条約のような高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と
認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」とした。
どう読んでも苦しい立論ではあるが、現実的対応に知恵を絞り出したものでもあり、
一概に批判はできないと思う。
護憲派学者は、このどちらの立場に立つのだろうか。おそらく伊達判決の立場に立つ学者が
多いはずだ。憲法論、法律論はともかく、政治的に、あるいは現実的に考えれば、
米軍の駐留は違憲であるという判決を下すわけにはいかなかったのである。
■憲法学者は日米安保体制をどう見ているのか
護憲派学者は、在日米軍の撤退、すなわち日米安保条約の廃棄を声高に叫んでこそ、
一貫した態度となる。これは自衛隊についても同様だ。6割以上の憲法学者が違憲だと
言うのであれば、「自衛隊即時解体」を主張すべきである。それが憲法学者としての
良心というものであろう。だが、こうした主張を寡聞にして聞かないというのは
どうしたことなのか。要するに、「自衛隊は戦力ではない」などのこれまでの
自民党政府の憲法解釈を事実上追認してきたということだ。この欺瞞的態度を
どう説明するのか。
護憲派は「憲法9条を守れ」「集団的自衛権反対」などと叫んでいるが、憲法9条を
守ってきたのは、憲法学者でも、護憲派でもない。歴代の自民党政府と内閣法制局である。
「自衛隊は戦力ではない」などという憲法解釈は、その最たるものであろう。
護憲派の多くは、自衛隊を毛嫌いしているが、自衛隊と日米安保条約こそが日本の平和を
守ってきたことは、争う余地のない現実である。ところが護憲派学者は、日本の安全保障
をどうするのか、まったく語っていない。安全保障論を語らずに、違憲論議だけを声高に
叫ぶのは、無責任の誹りを免れないことを護憲派学者は自覚すべきであろう。
「平和主義」という言葉があるが、本来、何もしないということではないはずだ。
「そもそもの『平和』という語が、『パックス』というラテン語から出ている」
(佐伯啓思『従属国家論』PHP新書)そうである。「パックス・ロマーナ」とは、
「ローマによる平和」であり、「パックス・アメリカーナ」は、「アメリカによる平和」
である。国際社会の平和を保つためには力が不可欠であることは論をまたない。
もちろん戦争などは誰も望んではいない。戦争の悲惨さを繰り返すことは、愚挙である。
だが愚挙がなくなるという保証はどこにもないのが、国際社会の現実である。
そうであるなら矢野氏が指摘するように「国破れて憲法残る」になってはならないのである。(了)