15/07/03 11:26:54.10 w43fCusd0.net
支那事変は支那が起した。
一般的に、支那事変(日中戦争)は、盧溝橋事件が始まりとされているとされています。
けれど、これは大きな間違いです。
盧溝橋事件というのは、昭和12(1937)年7月7日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍が、突然発砲を受けた、という事件です。
このとき日本軍は、演習中でしたが、実弾を携行していません。
つまり、日本軍は「銃は持っていたけれど、弾を持っていなかった」のです。
ですから、当然、応戦はできません。
なにせ撃ち返す弾がない。
これは、たいへん危険な状況です。
時代が時代なのです。
日本軍のすぐ近くには、蒋介石率いる国民党軍がいました。
正式名称は、国民革命軍第二十九軍です。
兵力10万人の大軍です。
ところが、この国民党軍も、日本軍が発砲を受けた同時刻に銃撃を受けています。
日本軍は受けた銃撃を、国民党軍によるものと思い込んだ。
けれど、国民党軍も日本軍によって銃撃を受けたと思い込んだのです。
この発砲がひきがねになり、日本と国民党軍との間に、小紛争がおきます。
けれど、両軍とも、妙に腑に落ちない。
両軍は使者を出し、現地で事件を拡大しないように交渉し、事件発生の5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。
日本軍も国民党軍も、どちらも戦いたくなどなかったのです。
では、いったい誰が、夜陰にまぎれて両軍に発砲し、戦闘状態を招いたのか。
支那共産党の周恩来首相は、昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、
「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言しています。
支那共産党の首相自らが、犯人は自分たちであったと自白しているわけです。
さらにいまも支那共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきり書かれています。
加えて支那共産党は、盧溝橋事件が起きた翌日(7月8日)には、「対日全面抗戦」を呼び掛けています。
盧溝橋事件が起きる事を知っていたからできた手際良さです。
要するに盧溝橋事件は、支那共産党による「謀略」です。
つまり日本軍による侵略行為ではない、ということです。