【ケント・ギルバート】久しぶりにポツダム宣言を読んでみた~ポツダム宣言は「無条件降伏」ではない 日本政府は条件付きで降伏したat NEWSPLUS
【ケント・ギルバート】久しぶりにポツダム宣言を読んでみた~ポツダム宣言は「無条件降伏」ではない 日本政府は条件付きで降伏した - 暇つぶし2ch2:名無しさん@13周年
15/05/30 14:19:02.02 pH3uleKW3
へぇー

3:名無しさん@13周年
15/05/30 14:59:38.29 1h9aSl4Gd
ポツダム宣言なんてもう効力はないだろ。
サンフランシスコ講和条約を締結してるんだし。

4:名無しさん@13周年
15/05/30 16:15:46.16 aR/xFqiRs
>>1
モルモン宣教師の意見は聞きたくない。

5:名無しさん@13周年
15/05/30 18:48:35.52 c++RhhcoU
4の意見の方が聞きたくない。

6:名無しさん@13周年
15/05/30 19:17:28.15 a1APhVS5P
>>4
お?
レッテル貼りのサヨクか?
オバマは珍妙な教会に出入りしてたんだってな

7:名無しさん@13周年
15/05/30 23:12:03.06 FXjVflQqc
>>4
違うでしょ。
都合の悪いことは聞きたくないでしょ。

8:名無しさん@13周年
15/05/31 02:27:59.04 X3QQPlEgr
>>4

>モルモン宣教師の意見は聞きたくない。

それはケント・デリカットだよ。

ケント・ギルバードは弁護士だよ。

9:名無しさん@13周年
15/05/31 02:43:39.83 vdiuFRq2b
予想外の被害を出してしまったので正義の戦争とでもしておかないとアメリカ人さえ納得させられなかったのだろう
アメリカは過ちを正せる国だから、いつかは正義の戦争史観さえ自ら捨てることができるかもと思ってあげるよ

10:名無しさん@13周年
15/05/31 03:23:36.01 mv7yfBcNG
>>8
モルモン教だよ

11:名無しさん@13周年
15/05/31 05:52:04.45 vhmxqdiW6
反米もする事で=俺インテリだけど
を、続けている方のケントだろ

今なんでポツダム宣言だと、誰もが首を傾げる
しかし日韓基本条約に関しては一切口を挟まないだろうな

12:名無しさん@13周年
15/05/31 06:23:06.59 K2f0POn3G
>第13条、「全日本軍」に対するもの
武装解除は"(以下略)"に書いてあるのかな?
武装を自主的に放棄したとなれば、銃社会の米国人にとっては驚いた事だろう。
だいたい一般の戦争における全体的な終結は、第一次大戦を例に取れば
撤退線を明記してその撤退で武器の放棄はない。
しかもその放棄した武器が、朝鮮半島で米国人や連合軍を殺しているのも皮肉だな。
管理・信用ないと判断し放棄を突きつけ、信用して渡した味方からその武器で撃たれる。
一元的独善性はこういう皮肉を繰り返す。

13:名無しさん@13周年
15/05/31 09:14:27.07 ohVIFlKKF
>>8
ケント・ギルバートもユタ州出身のモルモン宣教師ですね。
宗教観や道徳観が、平均的な米国人とは大きく隔たって異なっています。

ケント・ギルバート
URLリンク(ja.wikipedia.org)

1952年にアイダホ州に生まれ、ユタ州で育つ。
1970年にブリガムヤング大学に入学。翌1971年に末日聖徒イエス・キリスト教会のモルモン宣教師として初来日。

14:名無しさん@13周年
15/05/31 11:32:05.38 MHvTvZOmq
正論00年5月号で紹介された米軍の残虐行為:「リンドバーグの衝撃証言」の抜粋

各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、
米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。
*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。
残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。
*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。
*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た
途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。
*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。
*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。
ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。
*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、
偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。
捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。
*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。
*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。
金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、
耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる

15:名無しさん@13周年
15/05/31 11:33:31.51 MHvTvZOmq
八月三十日にリンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。
そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。
ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて
収容施設のある地域に輸送する際に、彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた。
そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。(以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著)
捕虜を取らない、とは
ニューギニア戦線でのオーストラリア軍やマッカサー指揮下の第四十一師団は、「捕虜を取らない」
つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺するので有名だった。
軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での
自らの体験を紹介している。
そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。
「しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、
部下の大佐が司令官に反論した。
「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)は答えた。
「捕虜はいらない。全員射殺してしまえ」。そして彼等は撃たれた。
日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、
戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、第四十一師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んでいた。
終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、第四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付けられていた。
この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。

16:名無しさん@13周年
15/05/31 11:34:14.07 MHvTvZOmq
(容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著)

*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、
太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。
事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、
そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、
待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで
人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。

(1)、沈没艦船の兵員の運命
昭和二十年(1945年)四月七日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、
駆逐艦三隻が敵の空襲を受けて沈没しました。
「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った
米軍戦闘機の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧の原艦長の証言)
「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた。」
(著書、「伊藤整一」、大和と運命を共にした第二艦隊司令長官)
同様な残虐行為はニューギニア近海でもおこなわれました。昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦(空襲)の結果、
陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が敵機の攻撃により沈められましたが、
沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり漂流中の千名の兵士達に対して、
アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、
映画撮影のカメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。
「決して男らしいやり方ではなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。
救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えたその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが以前に
オーストラリアのテレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。
「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。(容赦なき戦い、ジョン・ダワー著)
ちなみにハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止していました。

17:名無しさん@13周年
15/05/31 11:36:08.47 MHvTvZOmq
(2)、米海兵隊兵士による蛮行
昭和十七年(1942年)八月十七日の早朝、カールソン中佐率いる海兵隊は、
西太平洋のギルバート諸島のマキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させました。
しかし彼等が戦場で敵の遺体におこなった蛮行は、アメリカ海兵隊の歴史に恥ずべき汚点を書き加えました。
これが手始めとなり、その後の太平洋各地での戦場からベトナム戦争に至るまで、米軍兵士による
敵の遺体を冒涜する行為は、各地で続けられましたが、いずれも人種的偏見、蔑視に基づく行為でした。
(その一)
ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加わっていたカールソン襲撃隊は、
戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰め込んだ。
太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサー
であるシャーマン・グリンバーグが、二十年後にカールソン隊員の一人にその時の模様を(テレビで)
詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。
(ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」から)
(その二)
マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった
屍体が十五~六あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後一週間経っていたため原形は完全に崩れていて、
顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
(マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著)
(その三)
作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は
壱千個にもなる。彼等はそれでロウソク立て、灰皿やペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した
日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で一個二十五ドルで売られていた。(硫黄島いまだ玉砕せず)

18:名無しさん@13周年
15/05/31 11:37:45.80 MHvTvZOmq
我ら降伏せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実  田中 徳祐著  立風書房

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、約三個師団と推測される敵兵が上陸してきた。
そこからサイパン島の陸上戦が始まった。当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた。
7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり掃討戦の様相をあらわしてきた。敵は流ちょうな日本語で
ジャングル地帯に童謡を流し投降を促す放送を流し始めた。日本軍は組織的な抵抗は捨て、洞窟に、数人、
あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、
隠れている日本人に投降を勧めました。「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も十分に与えます。
もはや犬死にすることはない、今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降をまっています」
その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。これには潜んでいた日本軍も参ってしまつた、
その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などがながされたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」
投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

投降呼呼び掛けの放送とはうらはらな、人道上許し難い残虐な行為をしだした。日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる
洞窟にいて、その距離1キロ位先で展開された。そこへ、三方から追われた数百の住民が逃げ込み、捕らわれた。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ、婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理矢理トラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫していた。
その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。なんたることをするのだ、
小銃だけではどうすることもできず、此方の位置もしれてしまう。この悲劇をただ見守るしかなかった。
(この婦女子はその後一人として生還しなかつた)

19:名無しさん@13周年
15/05/31 11:39:06.36 MHvTvZOmq
我ら降伏せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実  田中 徳祐著  立風書房-2

婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」の投降勧告の意味は。
幼い子供が泣き叫び、絶叫する、
「おい、もう我慢ならん。撃て」吉田軍曹が一発撃った、何の効果もなく、敵はもはや無関心。

残酷な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、
又火のなかへ付き返す。死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛したり、
銃で突きとばしては火の海へ投げ込んでいる。二人の兵隊が滑走路際にいた、泣いている赤ん坊をみつけ、両足をもって、
真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のようにまたさきにされ殺されてゆく。

彼らは、その行為を平然としてやり、大声で笑い得意げになっていた。日本軍は手を出せず、ただ合掌し霊をとむらうほかなかつた。

太平洋戦争中にサイパン島での闘いで生き残った田中徳祐大尉の著作だが、田中大尉は戦後までゲリラとしてサイパンで戦い抜き、
その後、武装解除している。帰国後、本書を執筆するも、GHQの検閲ですぐには出版出来なかった。
雑誌「正論」などでも引用され、資料として貴重な本だが、現在、絶版になっており、再版が待たれている。
大東亜戦争中のアメリカ軍の残虐行為が表面化しないのはマスコミの報道管制によるもので、
現在でも在日米軍兵士の犯罪の8割が闇に葬られるのと同様の理由である。

20:名無しさん@13周年
15/05/31 13:16:22.70 SFwp6L5UR
モルモン教だから聞かないとか、志位和夫だから拝むとか、
「○○先生が言ったから」と与えられた情報から自分の頭で考えない、
内容しか信じないバカサヨらしい。

21:名無しさん@13周年
15/05/31 13:16:55.72 SFwp6L5UR
内容しか信じない→教祖様が言った内容しか信じない


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