【南京事件/慰安婦問題】中韓が建設急ぐ「虚の楼閣」 日本的良心は逆効果、世界は武士道が分からぬと心得、正しく丁寧に説明をat NEWSPLUS
【南京事件/慰安婦問題】中韓が建設急ぐ「虚の楼閣」 日本的良心は逆効果、世界は武士道が分からぬと心得、正しく丁寧に説明を - 暇つぶし2ch2:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/05/20 13:20:09.33
>>1より 

さらには「皇軍としてあるまじきこと」を叱責する松井石根軍司令官にも触れているが、
「のちに海外へ伝えられたいわゆる『南京大虐殺』などのようなものではなかった」と主張する。

南京攻略戦が終わった直後に著者は安全地帯や城内外を巡回しており、同盟の記者ばかりでなく、
他社の記者たちと情報交換もしている。

そうした中で、上海発で「占領区内(註:ドイツのジョン・ラーベを委員長に設けた市民を収容する
安全地帯で、避難民区や難民区とも呼称)で大規模の掠奪、暴行、放火があったという外電が流れた。
これを知って、私たちはキツネにつままれたような思いをした」と述べる。

100人にも上る記者が南京戦のあった現場に居合わせ、南京城内に設けられた安全地帯や城内外を廻っている。
それでも、外信が伝える「乱暴狼藉」の状況を誰ひとり見ていない。キツネにつままれた思いは当然であったろう。

現に、入城式前後の朝日グラフやその他のメディアが伝える写真は、子供や市民がにこにこしている
ものばかりで、大虐殺が行われているような状況を示す写真は1枚もない。その後に出回る写真も
大虐殺とは関係ないものを、「日本軍の悪行」にキャップションをつけ替えている。

■実際の城内風景

開城から2夜開けた15日、「車で城内をまわる。『避難民区』周辺には警備隊が配置されていた。
旧支局が区内にあるので入る。店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、
子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していた」(要旨)。
こうした様子に、戦争で荒れた心が和むのを覚えたと著者は述べる。

入城式の翌18日、「入城式の頃から難民区内外で商店が店を開け始め、同盟班も旧支局に移動していた
。区内の治安が回復したからである。支局には、戦前働いていた料理人や下働きが戻ってきた」。

難民区内での日本兵の乱暴狼藉説が上海から伝えられたのは、「その直後、私たちが以前の活気を
取り戻した難民区内の支局で、平和な日常活動をはじめた矢先のことである」と、記者は驚きを隠さない。

「市内をマメにまわっている写真(班)や映画(班)の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。
残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、14日には終わっていた。こうした無法行為が
あったとすれば、同盟(通信社)だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」

これこそは、誰が何を言おうと、「南京大虐殺はなかった」という明らかな証であろう。
それでも、日本がつけ込まれたのには日本人的良心からである。

100人もの記者がいろいろな角度から南京を見ていながら、なおかつ自分たちに「死角」があった
のではないかという「良心」からの一抹の危惧であろう。そうした心理にうまくつけ込むのが
三戦(世論・法律・心理戦)である。

確かに、数万人と言われる捕虜の処刑などはあった。しかし、警備の日本兵が少ないことを
見た捕虜たちの反乱が起き、日本軍さえ不足の糧食問題などを抱えていた。

一般に、「虐殺」とは、ドイツのユダヤ人ホロコーストや米国の原爆投下、
中国が起こした通州事件など、戦争と直接関係ない女性や子供を含む一般市民の殺戮である。
この点から見ても、南京で起きた捕虜の処刑などは戦争に伴う通常の犯罪である。

■争点化させる日本人

朝日新聞が宮澤喜一首相の訪韓5日前、1992年1月11日に取り上げた防衛庁(当時)の防研図書館
にある「陸支密大日記」は、「30年前から公開されていて、慰安婦関係の書類が含まれていることも、
軍が関与していたことも、研究者の間では周知の事実」(秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』)であった。

内容的には軍が慰安所の設置などの管理面で関与していたことを示すもので、朝日新聞が報道したように、
「歴史から目を逸らしてきた日本」でも、「偽証してきた政府」でもなかったが、そのような印象を
与える多数の見出しとリードは、新聞社の意図どうりに大反響を呼ぶことになる。

 >>3


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