【沖縄戦】「子供達を殺すか、さもなくば、ここから出て行け!」日本兵に脅され、食料を奪われ…米兵に助けられるも、7歳で一人ぼっちにat NEWSPLUS
【沖縄戦】「子供達を殺すか、さもなくば、ここから出て行け!」日本兵に脅され、食料を奪われ…米兵に助けられるも、7歳で一人ぼっちに - 暇つぶし2ch2:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/05/18 20:47:16.90
>>1より

収容所から祖母の家に移ってからも、さびしくてよく泣いていました。ある夕方、母が生前に使っていたツバキ油の香りが、
ほのかに漂ってきたのです。祖母も気づきました。戦争が終わったばかりで、ツバキ油なんてない時代だけに、不思議でした。
こんなこともありました。おばが昼寝をしている時に、夢の中で亡き母が枕元に立っていました。驚いて目を覚まし、
外に出ると、私が雨に打たれてふるえながら泣いていたので、家の中に連れ戻してくれたそうです。

■   ■

家族の遺骨は、真夏に祖母とスコップ、わら袋を持って、今は「魂魄之塔」が立つ糸満市米須で朝から探しました。
なかなか見つからず焦りました。日が暮れると、女性はアメリカ兵に乱暴され、殺される危険があるからです。
アメリカ軍にとって沖縄の人は「戦利品」です。恐怖心でいっぱいでした。祖母はとうとう泣き出し、
「魂があるならどこにいるか教えて」とスコップを土に突き差しました。

私がその下を掘ってみると、戦場で母が着ていた服が出てきました。紺地に白い花模様の地味な衣と、もんぺです。
金歯もありました。兄が持っていた、肩がけのかばんも出てきました。読書好きの兄らしく、中には本が1冊入っていました。
こうした遺留品と一緒に、母と兄の骨が見つかりました。妹2人の骨は、摩文仁で見つけました。
一帯は戦争で亡くなった人々の骨がいっぱいで、雪が降ったような風景でした。

家族の遺骨を持ち帰って並べました。母は元気だったころ、「戦争が終わったらおうちの回りにいっぱい花を植えて、
明るい家庭を作ろうね」と励ましてくれました。兄は「一生懸命勉強して、大きくなったらお医者さんになって、
困っている人を助けてあげたい」と言っていました。3歳だった妹は「大きくなったらお菓子屋さんになる」と笑顔で話していました。

夢と希望を断たれ、変わり果てた家族の姿を前にして、「骨があっても(死を)受け入れられない」
「受け入れることは私に死ねってことよ」と泣き叫びました。母の頭がい骨を抱くと、いっそう涙があふれてきました。
落ちる涙を、母の骨が優しく吸い取ってくれたように感じました。亡くなっても、私を心配してくれているんだと思いました。
祖母や先生の言うことをちゃんと聞いて、勉強しようと心に決めました。

祖母の家を出た後も、苦労は続きました。親戚の家を何軒も転々とさせられて生活しなくてはいけなかったのです。
両親が生きていた時は私を一人前に扱ってくれた親戚も、人も物もお金もない、戦後の大変な時に面倒を見るのは
負担が大きかったのです。扱いが戦争の前と違うんです。家族を失って傷ついている私は、そこにとても敏感になっていきました。
>>3

3:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/05/18 20:47:24.30
>>2より

■   ■

私と家族のつながりを記した公の台帳「戸籍」も、沖縄戦で焼けてなくなりました。私の正しい名前は「絹子」です。
普段の生活や学校でもそう記してきました。しかし、戦争が終わってから作られた戸籍には、長らく「キヌ」と
書かれていました。大人になって結婚して長く移り住んでいた熊本県で、キリスト教の牧師になる時に、
沖縄に住むおじやおば、友達から届いた手紙を証拠として家庭裁判所に提出して、戸籍の名前を「絹子」に戻しました。

生まれた月日も、戦争と戦後の混乱の中で、記憶を失ってしまいました。生き残った祖母が「だいたいこのぐらいだろう」
と考えて生年月日を決めましたが、おばは正確に覚えてくれていました。私は戸籍の名前を改める時に、生年月日も直したいと
望みましたが、証明する書類が残っていないため、あきらめざるを得ませんでした。「命があるだけで十分」と自分に言い聞かせました。

沖縄戦で亡くなった妹2人の名前は「つぎこ」「ふじこ」でしたが、戦後に作られた戸籍には載っていませんでした。
妹たちが生きた証を何としても残したい、そのために戸籍に載せたい、と強く思うようになりました。

しかし、実家があった玉城村役場(今の南城市役所)に連絡して、沖縄戦を含む第2次世界大戦で亡くなったり、
けがをした軍人や軍属、遺族を対象にした法律「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を担当する職員に尋ねると
「戸籍に載せるには、家庭裁判所で裁判を受ける必要があります。費用は1人当たり約100万円かかります」と言われ、
ショックを受けました。当時は払える経済的な余裕がありませんでした。戦争でつらい思いをして亡くなったのに、
生きた証さえ残せないのはあまりにもかわいそうで、耐えられませんでした。

私は、生き残った人間としてあきらめるわけにはいかないと決意しました。沖縄県が糸満市摩文仁に「平和の礎」を
建てる時に2人の名前を申し出て、沖縄戦から50年がたつ1995年に、礎に刻んでもらいました。
ようやく妹たちの生きた証を残せました。

■   ■

今、日本政府は名護市辺野古の海を埋め立てて、新しいアメリカ軍基地を造ろうとしています。戦争はしないと誓った
憲法9条も骨抜きにしようとしています。私は、70年前の悲惨な体験が風化して、また戦争の準備が進んでいると
危ぶんでいます。だます政府と、だまされる国民がそろった時に起こるのが戦争です。どんなに残酷か…。
もめごとは鉄砲や爆弾ではなく、英知で話し合って解決してほしいです。

テレビのニュースは今も日々、世界の各地で起きる戦争を伝えています。妹たちが亡くなった糸満市摩文仁に立つ
沖縄県平和祈念資料館には「戦争をおこすのはたしかに人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも 
私たち人間ではないでしょうか」と記されています。一人ひとりが心の中に「平和のとりで」を築きましょう。
普段から、いじめられている人に気づいたら、自分と同じくらい大切にして下さい。(了)

4:名無しさん@13周年
15/05/18 20:51:01.88 P7r9KcRsz
全体的に嘘臭い
特に遺骨を掘り起こすあたり
戦後しばらくたってから掘り起こした?そんなに土の中に埋まるものなのか?

5:名無しさん@13周年
15/05/18 20:54:28.77 Bxk+frCPF
読む気もしない

6:名無しさん@13周年
15/05/18 21:06:03.86 cnScUqlFJ
朝鮮人と全く同じ行動。

自決命令という嘘がバレたから
新しい嘘を作り出していく。

否定も肯定もしようのない嘘で
最大限の効果を狙った内容になってるのは

果たして偶然なんですか?


沖縄人を見捨てよう。

7:名無しさん@13周年
15/05/18 21:13:22.56 hysHuuleZ
嘘臭い

8:名無しさん@13周年
15/05/18 21:53:57.13 Lg+851ebf
No more Kiinuko !

戦争を起こさないように
抑止力として新しいアメリカ軍基地を早く造ろうぜ

9:名無しさん@13周年
15/05/18 22:27:38.44 ria/wFPcR
日本のクズぶりがまた明らかに(笑)。

10:名無しさん@13周年
15/05/18 22:34:07.61 DfXmcW9vZ
 琉球なんか敗戦後いち早く資本奴隷洗脳されちょるワニから
ハ~シ~ズと銀行が出来てメディアではタレントは大統領並の
給料貰えるワニさ~!!と洗脳されて、ワニさんの大腸癌68で逝った
ボンボンオヤジなんか12才目の前で母親殺されて、毎晩のように
悪夢に癌で死ぬまでうなされても、人口肛門なり放射線治療抗がん剤
毒のまされ血吐きながら民主主義最高~♪なんでも出来ると言ってたワニよ

11:名無しさん@13周年
15/05/18 22:39:53.46 D6UdQ1EyD
またウソついてる ハハハ!(^◇^)


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